丹後田辺藩
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田辺藩(たなべはん)は、江戸時代前期から明治時代初期にかけて丹後国に存在した藩である。明治維新後に舞鶴藩(まいづるはん)と改称した。藩庁は田辺城。現在の京都府舞鶴市に存在した。
概要[編集]
丹後田辺城は安土桃山時代、織田信長や豊臣秀吉に仕えた細川藤孝・細川忠興父子が領していた。慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いで田辺城は西軍の小野木重次らに攻められ、当時城を守備していた藤孝は開城している(田辺城の戦い)。
関ヶ原の後、忠興は豊後国小倉藩に加増移封され、代わって丹後には信濃国飯田藩から京極高知が12万3200石で入封した。元和8年(1622年)、高知が死去すると、次男の高三に加佐郡3万5000石が分与され、京極氏の分家として田辺城を藩庁とした田辺藩がここに立藩した。第3代藩主・京極高盛の時に弟の京極高門に1000石を分与している。寛文8年(1668年)に高盛は但馬国豊岡藩に移封された。
代わって河内国高安藩から牧野親成が3万5000石で入封し、ここに藩主家が安定した。小藩であったが、譜代大名の名門であるため、歴代藩主は奏者番・寺社奉行・京都所司代など幕閣の要職を歴任している。天明年間には藩校・明倫館が開かれた。
第9代藩主・牧野誠成は戊辰戦争においては明治政府に帰順する。第10代藩主・牧野弼成の時に藩の名を舞鶴藩と改称し、明治4年(1871年)の廃藩置県により舞鶴藩は消滅した。
歴代藩主[編集]
京極家[編集]
外様 3万5000石→3万4000石(1600年 - 1668年)
牧野家[編集]
譜代 3万5000石(1668年 - 1871年)