中野徹三
中野 徹三(なかの てつぞう、1930年12月19日 - )は、マルクス主義哲学者、思想史家。札幌学院大学名誉教授。専門は社会思想史(特に社会主義思想史)、人間学[1]。中国文学者の中野美代子は妹[2]。
経歴[編集]
北海道旭川市生まれ。仙台陸軍幼年学校在学中に敗戦を迎えた。1948年春に旧制北海道大学予科理類に入学、2か月後に日本共産党に入党。入学した1年後に旧制予科が廃止され、新制大学文類に編入[2]。1950年にレッド・パージを主張する連合国軍総司令部民間情報教育局顧問W・C・イールズの講演に抗議した「北大イールズ闘争」に参加した[3]。1951年3月に北大学生細胞指導部の指令で交番にビラを配り、地方公務員法違反で逮捕された。釈放後の4月に文学部史学科に編入[2]。1953年北海道大学文学部史学科卒業[4]。北海道大学大学院文学研究科西洋史学専攻に入学したが、学部卒業時に最高裁で懲役6ヶ月の判決を受け、約3ヶ月間服役した後に復学した[5]。
1963年北海道大学大学院文学研究科博士課程単位取得退学[4]。1963年4月札幌短期大学専任講師となり[6]、歴史、社会思想史、ドイツ語を担当[4]。1968年の札幌商科大学開学に携わり、同大学の常務理事を10数年間にわたって担当した。1968年札幌商科大学助教授[4]、のち教授、1984年札幌学院大学人文学部教授(校名変更による)[7][8]。1977年12月に大月書店から刊行した高岡健次郎、藤井一行との共編著 『スターリン問題研究序説』は共産党系の研究者によるスターリン主義批判として反響を呼んだ。1984年に共産党を除名された[4][5]。1999年定年退職[4]。
北海道自然保護協会代表代行[9]、常務理事[8]。2000年に札幌市中央区の丸山公園隣接地に高層マンション建設計画が持ち上がった際、計画変更を求める周辺住民らにより結成された「円山の緑と景観を守る市民の会」準備会の代表[10]、「円山の緑と景観を守る市民の会」代表世話人[11]。トロツキー研究所幹事[12]。
人物[編集]
日本を代表するマルクス主義哲学者[2]。人間主義的なマルクス主義の立場をとる[13]。学部生のときに高桑純夫、田中吉六、三浦つとむ、武谷三男など主体性論者から大きな影響を受け、初期マルクスをテーマとした修士論文執筆中にスターリン批判を知って大きな衝撃を受けた。初期マルクスやヘーゲル美学との出会いを契機に美学研究に取り組み、雑誌『思想』1959年12月号に最初の論文「マルクス主義美学の根本問題」を発表した[5]。美意識についていわゆる反映論を批判し、生活過程や実践性に着目した[14]。1977年に画家の永井潔と芸術認識論論争を行い[2]、永井や北条元一の反映論を批判した[14]。『スターリン問題研究序説』(共編著、1977年)、『生活過程論の射程』(1989年)などで展開されたスターリン批判や生活過程論は、田口富久治や加藤哲郎らの政治学研究とともにユーロコミュニズムを受けたマルクス・ルネッサンスの中で影響力を持ち、高橋昌明や河西英通ら歴史学者にも大きな影響を与えた[2][14]。スターリン主義を原理的に批判した『マルクス主義と人間の自由』(1977年)、『マルクス主義の現代的探求』(1979年)は、ユーゴスラビアの「プラクシス派」をはじめ国際的にも注目された[2]。
1959年から日本共産党北海道委員会の学生対策部員であったが、1961年の第8回党大会に出された綱領草案に反対して、大会後に辞任した。北大安保共闘会議で北大教職員細胞の代表幹事を務めるなど、北大時代には公然党員として知られていた[4]。1984年に共産党を除名された。小泉義之によると、「この背景には、札幌唯物論研究会など、知識人党員が結集する研究会の動向に対して共産党中央が警戒していた事情がある。アルチュセール研究を進めていた東京唯物論研究会、民主主義学生同盟(民学同)と関係のあった大阪唯物論研究会など、地方唯物論研究会を全国統一しようとした動向にも関連がある」とされる[15]。北海学園大学の橋本剛も中野の除名を批判して除名された[4]。
1987年に刊行した上島武、藤井一行との共著『トロツキーとゴルバチョフ』では、ゴルバチョフ政権によるペレストロイカの根底にはトロツキーの思想があると指摘し、トロツキー再評価を促した[16]。
2003年に刊行した藤井一行との共編著『拉致・国家・人権』では、北朝鮮は日本人拉致被害者を即時に帰国させ、国際法廷での裁きを受けるべきだと主張した[13]。
著書[編集]
単著[編集]
- 『マルクス主義と人間の自由』(青木書店[青木選書]、1977年)
- 『マルクス主義の現代的探求』(青木書店、1979年)
- 『生活過程論の射程』(窓社、1989年)
- 『社会主義像の転回』(三一書房、1995年)
共著[編集]
- 『革命家レーニン――その生涯と思想』(高岡健次郎共著、清水書院、1970年)
- 『レーニン』(高岡健次郎共著、清水書院[センチュリーブックス 人と思想]、1970年)
- 『トロツキーとゴルバチョフ』(上島武、藤井一行共著、窓社、1987年)
- 『思想探検』(八木橋貢、橋本剛、高田純、岩瀬充自共著、窓社、1988年)
編著[編集]
- 『スターリン問題研究序説』(高岡健次郎、藤井一行共編著、大月書店、1977年)
- 『拉致・国家・人権――北朝鮮独裁体制を国際法廷の場へ』(藤井一行共編著、大村書店、2003年)
分担執筆[編集]
- 服部文男編『講座史的唯物論と現代 2 理論構造と基本概念』(青木書店、1977年/青木書店[青木教養選書]、1987年)
- 北海道自然保護協会編『神々の遊ぶ庭――北の自然はいま』(築地書館、1987年)
- 『季報・唯物論研究』編集部編『証言・唯物論研究会事件と天皇制』(新泉社、1989年)
- 杉原四郎、降旗節雄、大藪龍介編『エンゲルスと現代』(御茶の水書房、1995年)
- 「北大5.16集会報告集」編集委員会編『蒼空に梢つらねて――イールズ闘争60周年・安保闘争50周年の年に北大の自由・自治の歴史を考える』(柏艪舎、発売:星雲社、2011年)
出典[編集]
- ↑ 日外アソシエーツ編『現代日本執筆者大事典 第4期 第3巻』日外アソシエーツ、2003年、570頁
- ↑ a b c d e f g 今西一「北大・イールズ闘争から白鳥事件まで-中野徹三氏に聞く(1)-(PDF)」『商學討究』第61巻第4号、2011年3月
- ↑ 「北大への思い、絵画に託す イールズ闘争で退学・梁田さん、田辺至作品を寄贈/北海道」『朝日新聞』2011年9月25日付朝刊29面(1道)
- ↑ a b c d e f g h 中野徹三「『序説』刊行前後の執筆者グループの状況と経過、そして刊行後の反響について(PDF)」『アリーナ』第16号、2013年
- ↑ a b c 今西一「北大・1950年代の政治と学問-中野徹三氏に聞く(2)-(PDF)」『商學討究』第62巻第1号、2011年7月
- ↑ 今西一「札幌商科大学創設期の前後-中野徹三氏に聞く(3)-」『商學討究』第62巻第4号、2012年3月
- ↑ 中野徹三、高岡健次郎、藤井一行編著『スターリン問題研究序説』大月書店、1977年
- ↑ a b 紀田順一郎ほか編『新現代日本執筆者大事典 第3巻(す~は)』日外アソシエーツ、1992年、552-553頁
- ↑ 「知床林の立木募金を中止 保護連合の代表と事務局長辞任」『朝日新聞』1988年4月18日付朝刊30面(2社)
- ↑ 「「緑が危ない」 円山公園隣に15階マンション計画 /北海道」『朝日新聞』2000年7月15日付27面朝刊(北海道1)
- ↑ 「計画変更求め札幌市議会に陳情 円山マンション建設問題 /北海道」『朝日新聞』2000年7月27日付朝刊27面(北海道1)
- ↑ トロスキーとは何者? トロツキー翻訳研究室(藤井一行主宰)
- ↑ a b 加藤哲郎「中野徹三・藤井一行編著『拉致・国家・人権――北朝鮮独裁体制を国際法廷の場へ』(大村書店、2000円) (『労働運動研究』復刊8号、2004年8月号に発表)」
- ↑ a b c 今西一「歴史学と〈表象〉(PDF)」『小樽商科大学人文研究』第123輯、2012年3月
- ↑ 小泉義之「〈68年〉以後の共産党—革命と改良の間で」、王寺賢太、立木康介編『〈68年5月〉と私たち――「現代思想と政治」の系譜学』読書人、2019年、64-65頁
- ↑ 「トロツキー再評価(風車)」『朝日新聞』1987年11月6日付夕刊3面(らうんじ)
関連文献[編集]
- 「もう一つの「袴田事件」といわれる国立大教授「党員群」の次元の高い「造反」」(『週刊新潮』1978年2月16日号)
- 鷲田小彌太『唯物史観の構想』(批評社、1983年)
- 谷口孝男『意識の哲学――ヘーゲルとマルクス』(批評社、1987年)
- 田口富久治、諏訪兼位、岩間優希、影浦順子、竹川慎吾、小島亮『伽藍が赤かったとき――1970年代を考える』(中部大学[中部大学ブックシリーズ Acta]、発売:風媒社、2012年)
外部リンク[編集]
- 中野徹三HP(リンク切れ)