リンボートップ

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お知らせ
この記事は「旧馬齢表記」が採用されており、国際的な表記法や2001年以降の日本国内の表記とは異なっています。詳しくはwp:ja:馬齢#日本における馬齢表記を参照してください。
リンボートップ
画像募集中.png
現役期間1987年 - 1992年[1]
欧字表記Rimbo Top[1]
品種アングロアラブ(アラブ血量29.29%)[1]
性別[1]
毛色栗毛[1]
生誕1985年4月22日[1]
死没不明(1993年10月1日用途変更)
抹消日1988年4月(JRA)
1992年12月25日(NAR)[2]
コシジカンセイ[1]
センジユニシキ[1]
母の父センジユ[1]
生国日本国旗.png日本鹿児島県[1]
生産重田香[1]
馬主(有)長久
→高橋哲夫
→山中定男[1]
調教師吉永忍栗東
→古賀土生(笠松
→山田勇( 佐賀
→神部幸夫(笠松)[1]
競走成績
生涯成績89戦15勝[1]
中央競馬)17戦3勝
地方競馬)72戦12勝
獲得賞金7072万6000円[1]
(中央競馬)2122万円
(地方競馬)4950万6000円
勝ち鞍アラブギフ大賞典(1989年)

リンボートップ(欧字名:Rimbo Top1985年4月22日 - 不明)は、日本競走馬種牡馬[1]。主な勝ち鞍は1989年アラブギフ大賞典。主戦騎手は増井裕(JRA在籍時)。

経歴[編集]

競走馬時代[編集]

1987年6月21日中京競馬場のアラ系3歳未勝利戦でデビューし、3着。5戦目に勝ち上がる。その後オープン戦線へ乗り込むも、勝ちきれない競馬を見せたことで8戦目には条件戦へ降格。しかし8馬身差の圧勝劇を見せたことでオープン戦線へ復帰。その後また勝ちきれなくなり銀杯ではモガミチェリーの5着、シュンエイ記念ではデビュー戦をともに走ったアキヒロホマレの6着と凡走が目立ったためまたしても条件戦へ降格、700万下からのスタートで2戦目に勝ち上がった。しかし次戦のアラブスプリントステークスの10着(勝ち馬:アキヒロホマレ)を最後に中央抹消。笠松競馬場へ移籍することとなった。

笠松移籍後もしばらくは勝ち上がれなかったが、7戦目に地方初勝利をあげた。その後1991年1月まで在籍し、重賞のアラブギフ大賞典を制した他オープン特別の銀嶺争覇三連覇(1988年、1989年、1990年)、アラブ銀杯を制した。その後は佐賀へ移籍、6戦するも勝ち星をあげることなく笠松へ戻った。1991年9月15日の東海グローリでの1着以降サラブレッドと戦う機会が増え、実際サラブレッド相手に勝つこともあった。1992年11月24日のいろり火特別での4着を最後に現役を引退した。

種牡馬時代[編集]

引退後は種牡馬となる。初年度(1993年)は2頭の繁殖牝馬を集めるも、2頭とも受胎させることができなかった。同年10月1日には種 牡馬を引退しており、その後の消息は不明。

競走成績[編集]

血統表[編集]

リンボートップ血統 (血統表の出典)
父系 オーム系

コシジカンセイ
栗毛 1978
父の父
フジスピード
栗毛 1968
トモスベビー サラ トシシロ
スルガ
アサユキ サラ クモハタ
統帛
父の母
サラ系 ユタカノイチ
芦毛 1972
サラ ライトワールド テユーダーペリオツド
ミスコータミン
アア ハナユタカ サチミノリ
松神

センジユニシキ
Senju Nishiki
鹿毛 1976
センジユ
鹿毛 1956
方景 サラ アスフオード
影英
イースタン バラツケー
梅橋
母の母
カネツコマチ
栗毛 1961
タカラオー サラ 崇優
宝清
トツプホーム 万青
緑迅
母系(F-No.) 不明(FN:不明)
5代内の近親交配 方景 5×3、ウツリーブリツヂ 5×5(母内)


脚注[編集]

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  1. a b c d e f g h i j k l m n o p リンボートツプ”. JBISサーチ. 2023年2月26日確認。
  2. リンボートップ 出走履歴”. www2.keiba.go.jp. 2023年2月26日確認。

外部リンク[編集]