高木左吉
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高木 左吉(たかぎ さきち、生没年不詳)は、戦国時代の武将。織田氏の家臣。幼名は小法師で法号は道斎[1]。父は河合某とされ、高木義清の養子になった[1]。
生涯[編集]
はじめ織田信清に仕え、その後に織田信長に仕えて永禄元年(1558年)7月の浮野の戦いで武功を立てた[1]。元亀元年(1570年)6月22日、信長の近江小谷城からの撤退の際、佐々成政と共に殿軍を務めた[1]。天正元年(1573年)8月13日の朝倉義景討伐戦(刀禰坂の戦い)では信長の馬廻として朝倉軍の追撃で武功を立てた[1]。
『武家事紀』によると奉行衆である武田左吉と共に「両左吉」と称されたというが、高木左吉に奉行としての実績は無いため信憑性を疑われている[1]。天正10年(1582年)6月2日に信長が本能寺の変で横死すると丹羽長秀に仕えたが、天正13年(1585年)の長秀没後は蒲生氏郷に仕えた[1]。