須田氏
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須田氏(しちじょうし)とは、日本の氏族である。上杉氏に仕えた須田満親・長義父子で著名である。
概要[編集]
信濃須田氏[編集]
信濃国高井郡須田(長野県須坂市)発祥とされ、清和源氏井上氏の支流であるとされる[1]。
戦国時代には北信で勢力を誇っていた村上義清に仕え、甲斐国の武田晴信による信濃侵攻に抵抗したが、天文22年(1553年)に晴信に敗れて、当時の須田満国・満親父子は越後国の長尾景虎を頼って逃亡した。以後は長尾景虎(改名して上杉謙信)の重臣となり、天正10年(1582年)に織田信長により武田氏が滅ぼされ、さらに本能寺の変で信長が死去すると、信濃国に帰還した[1]。
慶長3年(1598年)1月、謙信の養子・景勝は陸奥国会津に移封となり、この際に満親の子・長義はそれに従い、陸奥国梁川で2万石を与えられた。江戸時代には出羽国米沢藩主となった上杉氏の重臣として仕え、安永2年(1773年)に当時の須田満主は上杉家家老になった。しかし、藩主の上杉鷹山による藩政改革に反対して七家騒動を引き起こしたため、鷹山の命令により切腹。これにより一時須田家は断絶した[1]。後に再興はされたが、以前のような重臣待遇は無くなった。
なお、武田晴信に降った一族もあり、その中の須田信正は晴信から福島城を与えられて存続し、江戸時代には旗本となっている[2]。
また、どういう系譜か不明だが、陸奥国仙台藩主の伊達氏に仕えた須田氏も、信濃須田氏の一族とされている[2]。
秋田須田氏[編集]
陸奥国発祥で、宇多源氏を称した須田氏は二階堂氏に仕えた後、須田盛秀の時に佐竹義宣に仕えた。江戸時代には出羽国秋田藩主となった義宣にそのまま従い、同藩家老として2100石を食んだ[2]。
現在の須田氏[編集]
現在では関東地方から東北地方にかけて多く見られる姓である[2]。