粟屋勝久
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粟屋 勝久(あわや かつひさ、生没年不詳)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。受領名は越中守[1]。若狭国吉城主。若狭武田氏に仕え、後に織田信長、丹羽長秀に仕えた。
生涯[編集]
一族に粟屋左京亮、粟屋小次郎、粟屋弥四郎などが確認されるが、血縁関係などは明らかではない。若狭武田家に仕え、武田家の4人の老臣の一人に数えられたという(『若狭守護代記』)。居城は若狭三方郡佐柿国吉城であった。
永禄4年(1561年)6月に当時の武田家の当主・武田義統に対して逸見昌経と共に反乱を起こし、さらに松永長頼の支援も得て一時は優勢だったが、義統を助けるために派遣された朝倉義景の軍勢に敗れた(『厳助往年記』)。永禄6年(1563年)から6年間にわたって朝倉義景の攻撃を受けるが、これを国吉城で持ちこたえたという(『粟屋勝久戦功記』)。これは織田信長と通じてその支援も得ていたためと推測される。
元亀元年(1570年)に織田信長に臣従し、4月23日には越前の朝倉義景を攻める信長のために宿舎を提供している(『信長公記』)。天正3年(1575年)7月1日には武田元明ら若狭衆と共に京都の相国寺にいる信長の下に礼を述べに訪れ、8月の越前一向一揆攻めでは海から攻撃に参加した(『信長公記』)。
天正9年(1581年)2月28日の京都御馬揃えでは、織田政権下の若狭国主であった丹羽長秀に従って参加した(『信長公記』『士林証文』)。天正10年(1582年)6月の本能寺の変で信長が横死すると丹羽長秀に仕えるが、間もなく死去したという[2]。
子が跡を継いだが、天正13年(1585年)に丹羽長秀が死去した後、豊臣秀吉によって嫡子の長重が大減封をされた際に浪人し、後に稲葉典通の重臣になったという[2]。