立石正賀
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立石 正賀 たていし まさよし | |||||||||||||||||||||||
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立石 正賀(たていし まさよし、生没年不詳)は、戦国時代から江戸時代前期にかけての武将。土佐一条氏、長宗我部氏、細川氏の家臣[1]。
略歴[編集]
立石家は土佐国幡多郡下ノ加江の立石村や布村を支配していた豪族で、土佐一条家に仕えていた。後に長宗我部元親の家臣となり、天正8年(1580年)に元親の伊予国侵攻に当たって16歳で久武親直に従って参戦し、三滝城主の北ノ川氏らを討つのに貢献。さらに天正10年(1582年)には伊予高森城や深田城を攻撃し、敵将の深田太兵衛を討ち取る功績を立てた。元親からは1000石の所領を与えられていたという[1]。
元親没後は盛親に仕え、慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いで盛親が敗れた際、徳川家康に弁明するために家康の重臣・井伊直政の下に横山新兵衛と共に送られ、降伏を申し入れた。しかし津野親忠の殺害もあって長宗我部家は改易となり、改易に際して土佐の明け渡しを担当する井伊直政の家臣・鈴木平兵衛と共に土佐に帰国する。土佐では改易を知った一領具足により浦戸一揆が起こるが、その抵抗を鎮圧して浦戸城の接収に尽力した[1][2]。
後に肥後国熊本藩主の細川氏に仕え、1500石の知行を与えられた。『長元記』を著したという[2]。
脚注[編集]
注釈[編集]
出典[編集]
参考文献[編集]