福嶋藩
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福嶋藩(ふくしまはん)とは、江戸時代前期のわずかな期間だけ越後国に存在した藩である。藩庁は福嶋城。現在の新潟県上越市に存在した。
概要[編集]
慶長12年(1607年)、春日山藩主の堀忠俊は春日山城を廃城として、新たに直江津の東に福嶋城を築いてここに藩庁を移し、福嶋藩を立藩した。なお、忠俊は当時わずか11歳であり、実際の藩政は一族の長老・堀直政が執行していた。慶長13年(1608年)2月に直政が死去すると、その後釜、すなわち福嶋藩の主導権をめぐって堀氏内部で御家騒動、いわゆる福嶋騒動が発生する。直政の遺児である堀直清と堀直寄が、主導権と家老の座をめぐって争ったのである。この騒動を聞きつけた徳川家康は慶長15年(1610年)3月、駿府城に忠俊、直清、直寄らを召喚し、直清と直寄を対決させた上で忠俊に対し「家臣の内訌を治めることができない不埒な君」として改易を命じ、その身柄を陸奥国の鳥居忠政に預けた。
家康は新たな福嶋藩主として、自らの6男である松平忠輝を信濃国川中島藩から移封して、75万石という大領を与えた。これは直江津が交通の要衝であり、また東に米沢藩の上杉景勝、西に加賀藩の前田利常という大大名を牽制するための処置だったといわれている。
慶長19年(1614年)、忠輝は福嶋城が荒川・保倉川の2つの河川による水難が多いことを理由に、南8キロ先にある菩提ヶ原に新たな城として高田城を築き、福嶋城を廃城にしてここに藩庁を移した。こうしてわずか7年で福嶋藩は廃藩となった。
歴代藩主[編集]
堀家[編集]
外様、45万石
- 忠俊(ただとし)
松平(長沢)家[編集]
親藩、75万石