白鳥城
ナビゲーションに移動
検索に移動
白鳥城(しらとりじょう)とは、現在の富山県富山市吉作にかつて存在した日本の城である。
概要[編集]
この城は現在の呉羽丘陵最高峰の城山(標高145メートル)の山頂に存在していた山城である。
平安時代末期の治承・寿永の乱、いわゆる源平合戦の時代である寿永2年(1183年)、木曾義仲の腹心である今井兼平がここに陣を敷いたことで知られている。南北朝時代には南朝に属した越中国守護の桃井直常がこの山城を拠点に戦ったと言われている。ただし、これらはあくまでも伝承で確実性には乏しい。
史料でこの城が明らかになるのは戦国時代の越中国守護代である神保長職が天文年間(1532年 - 1555年)に富山城の出城として城構えを整備したのがこの城の本格的な起源とされている。
天正13年(1585年)、豊臣秀吉の越中征伐で佐々成政が降伏した際、秀吉はこの城で成政を引見したと言われている。その後、廃城となった。
現在は山頂部に3方を空堀に囲まれて本丸跡、一段下がって2の丸跡、東西に長く伸びる曲輪跡などが残り、本丸登り口には井戸跡が遺存している。本丸跡からは東に富山市街や立山連峰、北西には新湊・高岡の両市街、能登の山々などが一望でき、城山公園として整備されている。