水谷勝俊
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水谷 勝俊(みずのや かつとし、天文10年(1541年) - 慶長11年6月3日(1606年7月7日))は、戦国時代から江戸時代初期にかけての武将・大名。常陸国下館藩の初代藩主。兄に水谷正村がおり、正村は養父でもある。正室は堀田正吉の娘。子に勝隆。受領名は伊勢守。官途は左京大夫。
生涯[編集]
水谷治持の次男で、兄に正村がいた。永禄9年(1566年)、越後国の上杉輝虎の下総国臼井城攻めに参加し、輝虎から「以一本槍と称すべし」との感状を受けている。天正18年(1590年)、徳川家康が関東地方に入封した際には、関東の道案内役を務めた。
兄・正村が死去すると家督を相続し、常陸国真壁郡や下野国芳賀郡などで3万1000石を領した。慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは東軍に属し、常陸国の佐竹義宣の動きを牽制したことから戦後は家康より所領安堵され、常陸国下館藩の初代藩主となった。慶長8年(1603年)に天海が領内にやって来ると自ら政治の指南役と仰いだという。
慶長11年(1606年)6月3日に66歳で死去。第2代藩主は長男の勝隆が継承した。