有村次左衛門

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有村 次左衛門(ありむら じざえもん、天保9年12月28日1839年2月11日) - 安政7年3月3日1860年3月24日))は、江戸時代末期(幕末)の薩摩藩士、尊王攘夷志士兼清(かねきよ)。桜田門外の変井伊直弼の首級を打ち落とした人物として知られている。

生涯[編集]

薩摩藩士・有村仁左衛門の3男。長兄に海江田信義、次兄に有村雄助、弟に有村圀彦がいる。薩摩の武士として次左衛門は薬丸自顕流の修行を重ねて腕を磨いた。安政5年(1858年)に江戸藩邸詰めになると、千葉周作と出会って北辰一刀流の手ほどきを受けた。

同時期、日本では尊王攘夷運動が激しくなり、大老・井伊直弼によって安政の大獄が繰り広げられて、攘夷志士は次々と弾圧されていた。次左衛門は水戸藩の脱藩藩士と共に井伊直弼を襲撃することを決意。17名の水戸浪士と共に桜田門外に潜んで井伊直弼が江戸藩邸から出てくるのを待ち構えた。そして安政7年(1860年)3月3日午前9時、井伊直弼の大名行列が外桜田門に差し掛かるとき、水戸浪士と共に行列に襲いかかった。直弼を守護する彦根藩士を次々と蹴散らし、そして残るは直弼が乗る駕籠だけとなったとき、次左衛門は他の水戸浪士と共に駕籠に刀を突き刺し、そして既に死にかけになっていた直弼を駕籠から引きずり出すと、「きええええ!」という猿叫と共に直弼の首を斬り落とした。そして、自らの刀に直弼の首を突き刺して逃走しようとしたが、主君の首を取られたことで意識を覚醒させた彦根藩士・小河原秀之丞がふらつきながらも次左衛門に追いついて後頭部を深々と切りつけた。次左衛門は小河原を倒した後、直弼の首を持ったまま逃走するが重傷を負った身体では逃げ切れず、若年寄遠藤胤統の屋敷の前で遂に力尽きた。次左衛門は切腹することを決めて、直弼の首を肴にして腹を切った上で、見物人に介錯を願ったが誰もしてくれなかったので、腹を切ったその刀で自らの首を切りつけて自害したという。21歳の若さであった。

次左衛門の弟・國彦の子孫は直弼が支配していた彦根に後に移り住むと、直弼の曽孫で彦根市長を務めた井伊直愛と仇敵の末裔として親交したという。

登場する作品[編集]

前年放送の『白虎隊』での登場シーンをそのまま流用。