桜田門

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桜田門(外桜田門、高麗門)
桜田門(内桜田門、渡櫓門)

桜田門(さくらだもん、英:Sakurada Gate)は江戸城の門のひとつである。国指定の重要文化財(建造物)である。「外桜田門](高麗門)と「内桜田門」(渡櫓門)の二重構造となる。

概要[編集]

小田原街道(北条家の拠点の小田原城に向かう道)の起点であり、小田原口とも呼ばれていた。1636年(寛永13年)、江戸城外濠が完成し、総構が完成した際に、西の丸の南側入口として桜田門が建築された。それ以前は柵戸仕立の門であった。門の名称は桜田郷の地名から取られた。1663年に再建された門が基本となっている。1923年の関東大震災で破損したため、復元された。

桜田門の桝形は15間×21間あり、現存する城門の中で最大規模であり、「桝形城門」の形態がよく保存されているため、1961年(昭和36年)6月、国の重要文化財に指定された。

高麗門[編集]

高麗門は1592年から1598年の間に造営され始めた城門形式であり、「外桜田門」と呼ばれる。鏡柱2本に内側の控柱が2本ある。

桔梗門[編集]

江戸城桔梗濠に面した門が桔梗門であり、「内桜田門」と言われる。皇居一般参観の入口である。門を入ると江戸城三の丸となる。江戸時代には大名の登城は、大手門と内桜田門(桔梗門)に限られていた。江戸城を最初に築いた太田道灌泊舟亭があった場所と言われ、道灌の桔梗家紋が門名の由来となっており、現在の桔梗門の鬼瓦には桔梗紋が刻まれている。

桜田門外の変[編集]

桜田門外の変」も参照

1860年3月24日(安政7年3月3日)に、江戸幕府大老井伊直弼が桜田門付近で暗殺された事件である。総登城の日に彦根藩江戸上屋敷(現憲政記念館付近)から江戸城に向かっていた[1]。襲撃場所は現在の「桜田門交差点」(警視庁の前面道路の交差点)付近である。この事件により幕府の最高権力者が白昼に暗殺されるという失態から江戸幕府の権威は地に落ちて、島津久光を通じての勅命を受け入れての文久の改革に踏み切らざるを得なくなって公武合体策に傾き、大政奉還から明治維新へとつながる。

桜田門事件[編集]

1932年1月8日に発生した昭和天皇暗殺未遂事件である。大逆事件の一つである。陸軍観兵式を終えた昭和天皇が桜田門の警視庁前に差し掛かった時、大韓民国臨時政府の抗日武装組織「韓人愛国団」に所属していた李奉昌が群衆の中から天皇の車列に手榴弾を投げたが未遂に終わった[2]。李は大逆罪により死刑となった。

その他[編集]

本庁が近くにあることから「警視庁」を表す隠語として用いられる。

外部リンク[編集]

リファレンス[編集]

  1. 徳富 蘇峰(1984)『近世日本国民史 桜田事変』講談社
  2. 原田熊雄述(1950)『西園寺公と政局 第二巻―自昭和六年七月 至昭和八年一月』岩波書店