松坂局
松坂局(まつざかのつぼね、慶長3年(1598年) - 元禄元年(1688年))は、江戸時代前期から中期にかけての女性・乳母である。
生涯[編集]
Wikipedia日本語版では畠山義継の娘と紹介されているが史料上ではそんな関係は確認できず、Wikipediaがいい加減なものであることをよく示す好例の記事となっている。そもそも畠山義継とは陸奥国の戦国大名で別名を二本松義継というが、Wikipediaではこれを全くの別人として記事を立てており、全く信頼性の無い記事が存在しているといえる。
名に関しても、Wikipediaでは「おちょぼ(千代保)、乳母名は近江局」などと書かれているが、史料上からは全く確認できない。
松坂局は徳川氏の家臣・越智喜清の3女[1]で、姉の1人に徳川御三家の紀伊藩主・徳川頼宣の側室となった越智氏(浄心院)がおり、その間に伊予西条藩主となった松平頼純を産んでいる。松坂局は徳川秀忠の娘・千姫に仕えて大坂城に入り、大坂の陣で豊臣氏が滅亡する際、その落城を経験する。その後も千姫に従い、二条城や関東下向に従い、さらに千姫の再婚先である本多忠刻のもとにも従って姫路に赴き、忠刻が若死にすると千姫と共に江戸に戻った[1]。
その後、千姫の同母弟で第3代将軍・徳川家光の子である徳川綱重の養育に当たった。また、正室を迎える前に綱重が手をつけた侍女のお保良の方は、松坂局の部屋子である。この間に綱重は徳川家宣と松平清武を儲けている。しかし、この2人は庶子であり、正室を迎える前にできた子であるため、世間をはばかるために遠ざけざるを得なくなり、そのうちの清武は松坂局の父・喜清が養子として預かって育てている[1]。
松坂局は徳川氏を陰から支える役目を果たしながら、元禄元年(1688年)に91歳の高齢で没した。墓所は本所石原の沙源寺[1]。