東條英教

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東條 英教(とうじょう ひでのり、安政2年11月8日1855年12月16日) - 大正2年(1913年12月16日)は、日本陸軍軍人陸軍中将内閣総理大臣陸軍大将を務めた東條英機の実父である。

経歴[編集]

陸奥盛岡藩出身。藩士の家柄であった。明治6年(1873年)に19歳で陸軍の教導団に入団し、明治16年(1883年)に新設された陸軍大学校に第一期生として入学し、明治18年(1885年)に首席で卒業した大変な秀才であったという。

しかし出身の盛岡藩は幕末において奥州越列藩同盟に参加して明治政府と敵対した経緯があり、また陸軍士官学校の卒業では無いこと、そしてその人格の高潔さから当時の明治政府で絶大な権力の持ち主である山縣有朋に直言したことが災いして主流から外される。また、長男と次男が早世するという不幸もあった。

東條家の後継者は3男の英機であったが、英機は秀才だった父と異なり学業における成績は悪く、明治44年(1911年11月から心臓病のため、神奈川県小田原町の海岸の別荘で療養していた英教をひどく落胆させたという。大正元年(1912年)の時点で英機は数えで29才であり、30歳になると受験資格を失うため、最後のチャンスで英機は陸軍大学校の受験に合格したという。それを見届けた後の大正2年(1913年)12月に危篤状態に陥る。一時的に主治医の療養などで快方に向かうも、12月15日に容態が急変し、12月16日朝から脈拍や呼吸が不整になって結滞を来し、その日の夜に病死したという。

息子の英機は父の遺言を公表すると、親族以外は会葬を謝絶するという当時としては非常に異例の対応をしたという。

子息[編集]

妻・東條ちとせとの間に7男2女に恵まれている。