本田博

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本田 博(ほんだ ひろし、1950年3月22日 - )は日本の工学者。世界の科学技術者・エコノミスト (Global Scientist, Engineer and Economist)である事を心がけ、政治的には、Bipartisan (超党派) 的である。

1992年6月、国連地球サミット(UNCED)に参加し、International Energy Agency (IEA)、APEC Energy Working Groupの活動等にも注力する。UNCEDの後は米・仏・独を含む海外首脳レベルと書簡による交流活動を継続。

宇宙環境利用推進センターでは、NASA、ESA、独・仏・加の宇宙機関、ロシア科学アカデミー、NASDA関係者との科学技術交流活動に従事。日米機械学会 (JSME, ASME)では45年以上にわたり活動継続中。

日本機械学会での1997年の活動に端を発した産業フロンティア研究会の代表を務め、2010年代には、日本学術会議、2020年代以降においても、学士会、東大病院での会合などで日本の頭脳と言われる様々な分野での第一人者や若手研究者などと討論や意見交換を行う。

生い立ち[編集]

1950年3月22日、石川県金沢市に生まれる。父・本田榮一 (1922年 - 2003年)は、大阪市東区の薬品会社勤務 (後に常務取締役) で、金沢市無量寺町出身。母・本田豊子 (1924年 - 1952年、nee 土室) は、金沢市の陸軍病院 (現・国立石川病院) 看護婦第一期生 (後に、教育班において後進の指導を担当)。石川郡金石町 (現・金沢市)出身で高等小学校在学中は読み書き算盤などが優等であった。

そんな二人の長男として生まれる。豊子は、博を妊娠していた時期「今、出産すると体を弱めるから…。」 と医師から忠告を受けていたが、思い切って出産した。

1951年、豊子は胸を病み、金沢町の病院に入院する。同年8月、祖母の本田つゆと共に見舞いに訪れた博は、母の顔を忘れていた。豊子が榮一に送った手紙によると、「母からキャラメルを与えられて、初めて博と仲良くなれた」。博が病院を去った後、母の心は子への思いで満たされ、「博を育て、教育するために、すぐにでも良くなって退院したい」と夫への手紙で訴えていた。豊子の父・土室六次郎は、地元の郵便局長であった。

1952年1月5日、豊子死去。その後、継母の喜美子(nee 米田)に育てられるようになる。ただし、生母豊子の存在は、喜美子と異母妹たち(啓子・純子・英里子)への配慮から、博が21歳になり、企業での就職試験と面接が行われる直前まで伏せられていた。博は喜美子が生母であると信じ切り、喜美子の里がある石川県能美郡に行く事を楽しみにしていた。また、真実を知った後も、継母への愛情と感謝の気持ちには変わりなく、自分と同年代の頃の豊子の写真を初めて見た時は、恋人に出会った時のような思いであった。千葉県在住の長男・亮と長女・直子は、博と別居生活を送る。

1955年、大阪府で最も古い大阪市東区 (現・中央区) の愛珠幼稚園入園。

1956年、大阪市東区・愛日小学校入学後、出生の秘密が博の耳に入ることを恐れた榮一は、1957年春、大阪市此花区に転居する。博は梅香小学校へ転入。小学校時代は、豊子が得意であった珠算を習わされ、特に暗算が得意であった。6桁程度の足し算・引き算や、4桁程度の掛け算・割り算を空で出来た博は、後に米国留学先の工学系大学院で、電卓片手に博の暗算が正確なのを知った学友から、驚異の目を持って見られた。英語を学ぶ事も希望したが、両親から中学生になるまで待つように言い渡され、海外留学の為の絶好の英語習得機会を逃す事になった。

1962年、一学年12組、約600人の春日出中学校入学。中学1年生になってから、通訳経験のあるシニア女性から週2回、英語を学ぶ事を許される。当時は英語の発音が良くない英語教諭が大半であり、正当な発音が重要である事を認識するだけでもメリットになる事を知った。春日出中学校時代の成績は、学年でもトップレベルであったが、スポーツ部に入部する事を両親から禁止されたことは、後のテニス人生でのハンディにもなった。

1963年4月、大阪府高槻市に転居し、一学年16組、約800人の高槻市立第一中学校に転入。1964年春、同学年の男子の頑張りで、軟式テニス部が大阪府の大会で個人・団体共に優勝している。

在学中、全高槻市立中学校英語暗唱大会で入賞するも、上位を美人女子学生達に独占され悔しい思いをした。審査員は欧米人男性とインド人男性、日本人女性の3人。スピーチ前に男性審査員に英語で挨拶するも、彼らの目はすべて美人女子学生達に注がれ、男子は相手にされなかった。このメンツで公正な審査が出来るのであろうかと不信感を持ったのであった。さらに問題は、スピーチの内容については、英語教諭が本田の意見や希望を聞かずに、英語の教科書から適当に選んで申し渡したことである。優勝した生徒に与えた題目は、Abraham Lincoln's Motherと輝かしいものであったのに比べ(彼女の発音力も素晴らしかったが)、本田に与えられた題目はJohnny Appleseedと、何とも地味なものだったのである。しかも、その英語教諭はテーマを与えた直後、本田に「きっと、君が優勝する」と言葉をかけた。励ましの為に言ったのであろうが、後で考えると実に無責任な言葉だった。悔しいのは分かるが、オスがメスに発情するのは仕方ない。

第一中学校同学年の成績上位4人の内3人は、競争の激しい大阪府立北野高校に進学したが、本田はテニス部に入部希望があったので、他の約60人と共に通学時間の短い大阪府立茨木高校に進学した。しかし意外にも、北野高校に進んだ3人の内2人は、関西或いは中京の名門国立大学の入学試験に苦労し、浪人していた。

茨木高等学校時代は、軟式テニス部に入部し、バスケットボール部やラグビー部の仲間とも仲良くしていた。1965年11月の高校創立70周年記念日に、OBである川端康成と大宅壮一が講演を行い、学び知る事が多くあった。自分の世界に入り込んだ川端の講演は、ほとんどの高校生にとって分かりにくいものであったが、大宅の講演には全校生徒が大爆笑であった。

1968年京都大学工学部機械工学科入学。在学中は軟式テニス部に属し、関西六大学軟式庭球連盟副理事長などを歴任し、全日本学生、全日本一般のダブルス・シングルス選手権などにも出場した。大した戦績はなかったが、ダブルスの後衛として納得出来るプレーが出来た全日本一般ダブルス・シングルス選手権で試合を終えた直後、関西の雄・同志社大学のホープ大山憲一[1]から、過分なはなむけの言葉をいただき、その後の人生を支える言葉にもなった。軟式テニス部では、全学の様々な学科に属する仲間から、学ぶ事が多くあった。大学紛争の最中、講堂が学生に占拠され、一学期の授業がキャンセルされたが、軟式テニスの練習は予定通り行われた。東大入試が1969年中止となり、京大は史上最難関となって、頭脳明晰な後輩に恵まれた。同部OB会は、関西OB会[2]だけでなく東京OB会[3]もある。1972年卒業。

キャリア[編集]

三井造船[編集]

1972年、三井造船株式会社入社。同社では1972年より玉野研究所機械研究室、機械事業本部企画管理本部、千葉研究所機能材開発室及び開発設計部、東京本社総合企画本部 経営企画部、事業開発部、マーケティング部に勤務。

山下勇[4]が創設した海外留学制度により、第1回留学生として、The University of Michiganで1974年7月から8週間の英語集中課程を経て、The Pennsylvania State University (Penn State), Department of Engineering Science and Mechanics (Honors Department) 修士課程を1976年8月修了[5][6]。帰国後、海洋構造物である石油掘削用Jack-Up Rigの強度に関する研究を行い[7]1986年1月、京都大学より工学博士号を授与され[5]、三井造船株式会社からは同社製品に関する卓越した研究業績に対し、顕彰表彰第1級を授与される。

1991年より、財団法人日本エネルギー経済研究所 Senior Economist 兼 太平洋コールフロー推進委員会(JAPAC)Director Energy Master Plans & Conferences[8]1994年より三井造船第二事業本部環境エネルギー総括部プロジェクト部[9]1996年より財団法人宇宙環境利用推進センター内の地下無重力実験センター利用支援室長及び調査研究部主任研究員を務め、国際シンポジウムの組織化、調査研究、出版の仕事に従事した[10][11]

教歴[編集]

1996年頃以降、財団法人での講演以外に東京電機大学大学院、同志社大学[12]、湘南工科大学[13]で教鞭を取る。

2000年より、東京都立科学技術大学教授待遇[14]などのポストを得て、2002年6月、米国エネルギー省エネルギー技術研究所から、”Political Environment of Japan"と題する講演に対し、Certificate of Appreciation for Outstanding Presentationを授与される。米国シカゴに本部を置くInstitute for the International Education of Students(略:IES)講師[15][16]東京大学Executive Program 講師[15]等を務め、2019年5月、BostonのJohn F. Kennedy Presidential Library登録研究者となる。

学会[編集]

日本機械学会(略:JSME)において、東京大学生産技術研究所木内学教授及び西尾茂文教授の指名により、日本の産業フロンティア研究分科会主査[17]、技術と社会部門研究企画委員長、及び 日本機械学会創立百周年記念講演会パネルセッション「21世紀の地球産業フロンティア 」座長 (Chair of Session on Global Industry Frontier of the 21st Century at the JSME Centennial Grand Congress 1997)[18][19]、さらに商議員などを務める。

米国機械学会(The American Society of Mechanical Engineers, 略:ASME)では、役員推薦委員会委員 (Nominating Committee Member)、国際機械工学コングレス(IMECE)におけるEngineering and Technology Management Group 代表、Technology and Society Division Chairなどを務めた。IMECE 2000~IMECE 2004では、歴代ASME会長によるパネルセッション、英国 Department of Trade and Industry (DTI), 米国 National Institute of Health (NIH)、National Science Foundation (NSF) からDirectorレベルの講師、民間企業の社長を招いてのセッションなどの組織化及び座長を務めた[20]。IMECE 2011 - 2014で発表した講演または論文については、単著によるグローバルリーダー養成及び言葉の壁・カルチャーギャップなどについての講演論文[21]、Wisconsin大学のSubha Kumpaty教授夫妻との共著による日・米・印の三カ国連携による将来のグローバルリーダー養成についての講演論文の発表、規制科学・規制工学分野における世界的動向についての講演 (2016年にAmerican Journalに論文掲載){Sfn|Honda & Kumpaty|2014az}}、Public Ivies Exchange Programの提唱[22]、規制科学・規制工学分野についての講演論文(2016年に American Association for Science and Technology (AASCIT) Journal (2) に論文掲載[23]) 、が挙げられる。なお、IMECE 2011 - 2013については、和文で参加報告を執筆した[24]

規制科学・規制工学分野の講演は、日本学術会議でも行った[25]

著書、報告書、講演論文集、Symposium Proceedings、論文、グローバル化や地球環境問題に関する連載講座、IMECE報告記事などを日・英の言語で合計200編以上出版。

同窓会[編集]

Penn Stateでの院生時代は、勉学以外にも院生用の寮Atherton Hall (2000年よりThe Schreyer Honors College)では、米国人学生のみならず海外からの留学生から、大学所有の2つのゴルフコース[26]では、初対面で様々な人々から、学ぶ事が多くあった。本人によると米国の母校とのことである。

1990年11月、同窓会誌に単著の留学体験記が掲載される[27]

1993年から1997年にかけて日本ペンシルバニア州立大学同窓会長を務める。1998年、同大学Board of Trustees[28]より、日本出身の卒業生として初めてのDistinguished Alumnus Awardを授与される。2023年1月現在、唯一の日本人受賞者である。

Penn Stateの同窓会活動においては、同校でレスリング部主将を務めた内藤克俊(園芸学専攻)のプラークをJoab L. Thomas同学総長へ献呈している(1995年5月5日)ことを特筆すべきであろう。同日、Thomasは本田のReferences (身元参照人) の一人になっていただく事に同意してくれた。内藤は、自らの優勝のみならずレスリング部も米国東部カレッジリーグ優勝に導き、1924年のパリオリンピックにおいてWrestling Freestyleで日本人初となるメダルを獲得した人物である[29]

1996年、米国外の同窓会支部では唯一の日本ペンステート同窓会支援スカラーシップ(Japan Chapter of Penn State Alumni Association Endowed Scholarship)の創設を、Joab L. Thomas総長[30]と共に行った[22]

1997年7月、日本機械学会百周年記念講演会に[19]Penn State Executive Vice President and Provost(筆頭副学長)のJohn Brighton博士を基調講演者として招聘。その後同博士と共に、母校の国際プログラム担当学部長の代理として東京大学・蓮見重彦総長、京都大学・長尾真総長、東北大学・阿部博之総長を訪問し[31]、Penn State 同窓会を東京と京都で開催した。その後、歴代総長並びにEric Barron現総長、College Football Head Coachとして世界的に著名な故Joe Paterno監督[32]とお目にかかる機会にも恵まれた。大学のチームが、日本に遠征して、アメリカンフットボールの試合をする事について、”It will take a long shot to come to you in Tokyo, but we are discussing with our athletic director ..."というファックスを送ってくる程、Paterno監督は前向きに考えておられたが、癌との戦いなどに勝てなかったのは残念であった。

1998年11月、学士会館にてPenn State助教授でNASA宇宙飛行士のJim Pawelczyk博士を招いて講演会とPenn State同窓会を開催。講演会は多くの子供達に好評を博した[33]

地域活動[編集]

1995年にアラバマ大学総長を退任、その後Alabama州Tuscaloosa市に戻られた故Joab L. Thomas博士並びに関係者の支援の元、姉妹都市であるTuscaloosa市と習志野市との交流活動の活発化に注力する。交流活動を高校レベルから大学レベルに引き上げるための提案書を、Tuscaloosa のAlvin DuPont市長(当時)と習志野市の荒木勇市長に提出した。また、Tuscaloosa市関係者の招請に従って同市議会で短く演説したことは、自らの評価を高める事につながった(George W. Bush大統領の招請にもかかわらず、米国連邦議会で演説することを断った小泉純一郎首相と比べられて)。

2001年9月11日の同時多発テロ事件により飛行機欠便の最中、ASME主催のDesign Engineering ConferenceでPlenary Lectureを9月12日にPittsburghで行った後、9月13日にはTuscaloosa市へ向けて一昼夜車を運転し、大学レベルの交流活動の皮切りとして、9月14日午後、アラバマ大学Honors Programの学生に講義を行った。

日本の地方自治体向けなどの講演に関しては、1994年から2007年にかけて浦安市国際交流協会や習志野市民カレッジの主催行事に講師として招かれ、著書『ホンネで活かす外国人社員』や実体験を元に講演すると共に、講演論文集を出版し[34]海外の国際機関International Organization for Migration (IMO) の Director General や大学の要人にも配布した。

浦安市国際交流協会主催による「ホンネで活かす在住外国人」(浦安国際センター、1994年頃)、習志野市民カレッジ主催の外国人住民への配慮と接し方についての講演 (習志野市大久保公民館、2006年)、浦安市国際交流協会主催による「在住外国人は何を求めているか ―仕事と職場の問題-」 (浦安国際センター、2007年3月31日)、「グローバル人材をどう育てるか?」(文京シビックホール、2018年6月18日) などを行い、多い時には約300名の聴講者があり、様々な反響があった。習志野市国際交流協会誌 (NIA Square)には、国際教育のあり方などについての記事を寄稿した[35][36]

人物・エピソード[編集]

  • 1974年6月からの米国留学後は、硬式テニスに転じ、習志野市硬式テニス大会男子シングルス55歳以上の部で優勝、準優勝などを果たした。
  • 京大では全学及び機械工学科首席卒業の恩師故河本實教授、博士論文の面倒を見ていただいた柴田俊忍教授、矢部寛教授、駒井謙治郎教授、建築工学科の野中泰二郎教授 (Fulbright留学し、Brown大学でPh. D.取得) には、学ぶ事が多くあったが、逆に、スポーツマンの特質なども認識し、好意を持っていただいたようであった。
  • 若い頃、デンマークに技術留学した山下勇氏 (後に、日米賢人会議のメンバー) の視点の多様さと行動力には、ただ驚くばかりで、米国留学に際しても学ぶべき事が多くあった。1975年、Waldorf Astoria New York Hotel で開催された山下社長主催の顧客を招いてのパーティには、留学生も招かれた。パーティ後の仲間内の集いでは、山下社長から「我々の会社も、やがて構造不況業種に陥るが、その時は君たち留学生が助けてくれる。」との訓示があった。その折、留学報告を求められ、本田は、米国の小学校に相撲を教えに行った話を含む留学報告を終えた後、「アメリカでは体重が増えましたので、帰国後は、花籠部屋にでも入門して、相撲取りにでもなります」と冗談を飛ばすと、殆どの社員は笑ったが、一人だけ、苦虫を噛みつぶしたような顔をして、「君、それでは体重が足りないよ」と切り返したのが同社長で、当意即妙の受けに感心すると共に、同氏の親心のようなものを心深く感じた次第であった。
  • 日本エネルギー経済研究所への赴任時には、これについて、生田豊朗理事長 (後にWorld Energy Council President) から前述の山下勇会長へ直接のご依頼をいただいた。海外の先進国首脳とのやり取りにおいては、日本で培った繊細な感覚と米国流の積極的なマインドの使い分け、時には、誠実さの徹底などが功を奏した。また、海外では、後述の英文著書を謹呈することが、信用を得る上で有効な事も多くあった。
  • 日本での中学生時代には、お前は嘘をつけないから、政治家にはなれないなどと年配者に言われたりしたものであるが、海外では、一般的な日本人の感覚と少し違った面があり、これは、実際に体験し、肌で感じなければ分からないのである。これについては、宇宙環境利用推進センターでの職務も同様であった。ロシア科学アカデミーからの招聘講師とのお付き合いでは、一対一で、レストランや飲み屋でひとときを過ごした後、彼のホテルの部屋で、ウォッカのぐい飲みの応酬で締めを行った事もあった。故山下勇会長は、本田博の著書を読み、かつ彼の活動についての報告を受け、同氏が築いた幅広い活動の後継者の一人であると思っておられたように聞き及ぶ。
  • 学士会会報に「アメリカの学術と教育の文化について思う」と題する邦文が掲載された2005年9月1日の程なく後、学士会夕食会に出席すると、役員席中央の故團藤重光理事長 (刑法・刑事訴訟法)) の真横の席に誘導された。すると驚いた事に、周囲の役員は、この二人だけの会話が出来るようにとの配慮からか、遠くの席へ移動したのである。これまで、このような経験はなく、團藤先生の人格と重みを感じ、その後の学士会での活動がしやすくなった事は、言うまでもない。米国やインドネシアなどでも、同様の経験はあったが、周りの役員が席まで移動するような事はなかった。その後は、刑法・刑事訴訟法分野で故團藤重光先生の後を継がれた松尾浩也先生 (学士会常務理事、後に理事長) と電子メールなどで連絡を取らせていただき、その律儀なお心遣いに接し、光栄に感じた次第である。

出版[編集]

著書[編集]

  • 本田博 「第1章 研究開発を見る」『モノを見る目』 奥村孝(監修)、日経BP、1994年8月11日、1-81頁。ISBN 4822270963
  • 『Working in Japan: An Insider's Guide for Engineers』 Hiroshi Honda、Amer Society of Mechanical、1992年1月1日。ISBN 0791800253
  • 『Working in Japan: An Insider's Guide for Engineers and Scientists』 Hiroshi Honda、Amer Society of Mechanical、New York、2000年10月1日、2nd。ISBN 0791801527
  • 本田博(編著) 『ホンネで活かす外国人社員』 にっかん書房、1994年4月1日。ISBN 4526035181
  • 本田博、アラン・モギッシ 『規制科学・規制工学概論』 養賢堂、2017年6月1日。ISBN 978-4-8425-0560-2

編者として[編集]

  • Honda, H., CCUJ/MES Editor/Author, A Feasibility Study of Coal Oil Agglomeration and Heating System for the Republic of Indonesia (1995)
  • 本田博編, 宇宙環境利用国際シンポジウム IN SPACE‘98 講演論文集 (宇宙環境利用推進センター, 東京, 1998 年 11 月) Honda, H., Editor, Bound Volume for Symposium Papers and Abstracts for International Symposium on Space Utilization IN SPACE ‘98, (Japan Space Utilization Promotion Center, September, 1998) English and Japanese
  • 本田博編, 宇宙環境利用国際シンポジウム IN SPACE‘97 講演論文集 (宇宙環境利用推進センター , 東京, 1997 年 11 月) Honda, H., Editor, Proceedings of International Symposium on Space Utilization IN SPACE ‘97, (Japan Space Utilization Promotion Center, November 1997) English-Japanese Contrast
  • JSUP 編(編集担当 本田博), 微小重力応用海外文献抄録集, Vol. 5 (1998 年 3 月)
  • JSUP 編(編集担当 本田博), 微小重力応用海外文献抄録集, Vol. 4 (1997 年 3 月)
  • JSUP 編(編集担当 本田博), 平成 9 年度 JSUP 宇宙環境利用の展望 (1998 年 3 月)
  • JSUP 編(編集担当 本田博), 平成 8 年度 JSUP 宇宙環境利用の展望 (1997 年 3 月)
  • 本田博・小針利明編, P-SC286 日本機械学会「日本の産業フロンティア研究分科会」成果報告書 (1998 年12 月)
  • 本田博編, 日本機械学会 100 周年記念講演会パネル討論「21世紀の地球産業フロンティア」講演論文集 (東京, 1997 年 7 月) Honda, H., Editor/Author, Proceedings of JSME Centennial Grand Congress Plenary Session ”Global Industry Frontier of the 21st Century”, (JSME, Tokyo, July 1997) English-Japanese Contrast
  • Honda, H., Editor, Proceedings of Engineering & Technology Management Group Symposium on Successfully Managing the Risk and Development of Your Business and Technology, IMECE 2000 (ASME, 2000)
  • Honda, H., Editor, Proceedings of Engineering & Technology Management Group Symposium on Partnering to Succeed: Keys to Managing Technology Development, Risks and Globalization, IMECE 2001 (ASME, November 2001)
  • Honda, H., Editor, Proceedings of Engineering & Technology Management Group Symposium on Industry, Technology, Society and History, International Mechanical Engineering Congress and Exposition (IMECE) 2002 (ASME, November 2002)
  • Honda, H., Editor, Proceedings of Technology & Society Division Sessions, International Mechanical Engineering Congress and Exposition (IMECE) 2003 (ASME, November 2003)

論文[編集]

  • 本田博、J. C. Conway, 有限要素法による歯元にき裂を有する歯車の応力解析とその強度評価への適用, 日本機械学会論文集 C 編, Vol. 45, No. 392 (東京,1979年4月)
  • 本田博、北村誠一、山田富稔、ジャッキアップ用昇降ラックの強度の研究, 第 1 報: 高張力鋼製大形ガス切断ラックと機械仕上げラックの疲労挙動, 日本機械学会論文集 C 編, Vol. 50, No. 452 (東京,1984 年 4 月) pp. 687-696 を始めとする関係論文和英11編
  • Honda H., Outlook for Coal Supply and Demand and Environmental Protection Measures in the Asia-Pacific, Energy in Japan, No. 128 (IEEJ, July 1994)
  • Honda, H., JAPAC International Meeting Coal Flow ’93, Energy in Japan, No. 122 (IEEJ, July 1993)
  • 本田博、アジア・太平洋地域における石炭需給と環境対策の将来, エネルギー経済, Vol. 20, No. 6 (日本エネルギー経済研究所, 1994 年 6 月)
  • 本田博、石炭とリグナイトの利用の将来, エネルギー経済, Vol. 20, No. 5 (日本エネルギー経済研究所, 1994 年 5 月)
  • Honda, H., Overview of Regulatory Science and Engineering over the Past Four Years in Global Arena, American Journal of Environmental Engineering and Science, 2016. 3(1): 1-20, Published online February 2, 2016 (http://www.aascit.org/journal/ajcees), ISSN: 2381-1153 (Print) ISSN: 2381-1161 (Online)
  • 本田博、アランモギッシ、5038 規制の合理化における課題と提言: 規制科学(RS)・規制工学(RE) における減災性/脆弱性、不確か性、確率性を有する問題の定量化に向けて、日本学術会議主催安全工学シンポジウム 2015 講演論文集 (日本学術会議 2015 年 7 月 2-3 日) pp. 160-163.
  • 本田博、5042 海洋構造物・建築物における疲労と破壊の事例および事故防止における課題と規制科学・規制工学の役割について、日本学術会議主催安全工学シンポジウム 2015 講演論文集 (日本学術会議、2015 年 7 月 2-3 日) pp. 176-179.
  • Moghissi A. A. and H. Honda, Paper No. 5040 Regulatory Transparency: Regulatory Science and Engineering vs Ideology Related to Golden Rice, Proceedings of Safety Engineering Symposium 2015 (Science Council of Japan, Tokyo, July 2 and 3, 2015), pp. 172-175.
  • Moghissi A. A., Pei, S. and H. Honda, Paper No. 5041 Regulatory Transparency: Regulatory Science and Engineering vs Ideology Related to Ionizing Radiation, Proceedings of Safety Engineering Symposium 2015 (Science Council of Japan, Tokyo, July 2 and 3, 2015), pp. 172-175.  

出典[編集]

  1. Moghissi, A. A.、Pei, S.、H. Honda 「Regulatory Transparency: Regulatory Science and Engineering vs Ideology Related to Ionizing Radiation」『Proceedings of Safety Engineering Symposium 2015』 Science Council of Japan、Tokyo、2015年
  2. 本田博、J. C. Conway「有限要素法による歯元にき裂を有する歯車の応力解析とその強度評価への適用」、『日本機械学会論文集 C 編』第45巻第392号、1979年
  3. 本田博; J. C. Conway (1979). “An Analysis by Finite Element Techniques of the Effects of A Crack-Type Flaw in the Gear Tooth Fillet and Its Applicability to Evaluating Strength of the Flawed Gears”. Bulletin of the JSME 22 (174). 
  4. 本田博、北村誠一、山田富稔「ジャッキアップ用昇降ラックの強度の研究, 第1報: 高張力鋼製大形ガス切断ラックと機械仕上げラックの疲労挙動」、『日本機械学会論文集 C 編』第50巻第452号、1984年、 687-696頁。
  5. H. Honda (1993). “JAPAC International Meeting Coal Flow '93”. Energy in Japan (IEEJ) (122). 
  6. H. Honda 「For Smooth Expansion of Coal Trade in the Asia Pacific Region and the World」『Proceedings of the IEA Houston Conference “The Strategic Value of Fossil Fuels: Challenges and Responses”』、1995年
  7. 『宇宙環境利用国際シンポジウム IN SPACE '98』 本田博、宇宙環境利用推進センター、Tokyo、1997年
  8. 『微小重力応用海外文献抄録集, Vol. 5』 JSUP、1998年(編集担当: 本田博)
  9. 本田博「産業・ビジネスおよび工学のグローバル化と教育の役割(12)」、『機械の研究』第66巻第8号、養賢堂、2014年、 706-714頁。
  10. 本田博「産業・ビジネスおよび工学のグローバル化と教育の役割(15)」、『機械の研究』第66巻第11号、養賢堂、2014年、 985-996頁。
  11. 本田博「産業・ビジネスおよび工学のグローバル化と教育の役割(14)」、『機械の研究』第66巻第10号、養賢堂、2014年、 897-903頁。
  12. 本田博「産業・ビジネスおよび工学のグローバル化と教育の役割(13)」、『機械の研究』第66巻第9号、養賢堂、2014年、 795-811頁。
  13. 『日本機械学会「日本の産業フロンティア研究分科会」成果報告書』 本田博, 小針利明、1998年
  14. 『日本機械学会100周年記念講演会パネル討論「21世紀の地球産業フロンティア」講演論文集』 本田博、JSME、1997年
  15. 『Proceedings of Engineering & Technology Management Group Symposium on Industry, Technology, Society and History, International Mechanical Engineering Congress and Exposition (IMECE) 2002』 H. Honda、ASME、2002年
  16. Honda, H. 「Raising Global Human Capitals and Engineers from the East」『Proceedings of ASME International Mechanical Engineering Congress and Exposition』、2011年
  17. Honda, H.. “Overview of Regulatory Science and Engineering over the Past Four Years in Global Arena”. American Journal of Environmental Engineering and Science 3 (1): 1-20. ISSN 2381-1153. 
  18. 本田博「国際機械工学コングレス (IMECE) 2013を振り返って(4)」、『機械の研究』第66巻第7号、養賢堂、2014年、 568-575頁。
  19. 『2007年3月31日開催 浦安市国際交流協会創立20周年記念シンポジウム「在住外国人は何を求めているか」―討論・講演論文集―』 本田博、産業フロンティア研究会, 浦安市国際交流協会、2008年、第2版。
  20. 本田博「国際教育の勧め」、『スクウェア』第73号、習志野市国際交流協会、習志野市津田沼、2006年3月1日、 7頁。
  21. 本田博「世界の人々と語ろう、遊ぼう」、『スクウェア』第51号、習志野市国際交流協会、習志野市津田沼、2000年9月1日

脚注[編集]

  1. 後に主将
  2. 会長: 山元寛昭。西日本学生シングルス選手権優勝者
  3. 会長: 徳田八郎衛。地球物理学専攻
  4. 三井造船社長、後にJR東日本初代会長、経済団体連合会副会長、the International Organization for Standardization (ISO) President等歴任
  5. a b 本田 & Conway 1979o.
  6. 本田 & Conway 1979p.
  7. 本田et al. 1984r.
  8. Honda 1993ab.
  9. Honda 1995af.
  10. 本田 1997ah.
  11. JSUP 1998aj.
  12. 本田 2014an.
  13. 本田 2014ao.
  14. 本田 2014ap.
  15. a b 本田 2014ar.
  16. 担当科目: The Contemporary Economy of Japan
  17. 本田 & 小針 1998at.
  18. 日・米・EUから講師を招聘
  19. a b 本田 1997au.
  20. Honda 2002aw.
  21. Honda 2011ba.
  22. a b 本田博 「アメリカの学術と教育の文化について思う」『学士会会報』2005年9月1日号
  23. Honda 2016bc.
  24. 本田 2014bh.
  25. Moghissi et al. 2015k.
  26. 学生料金:当時は年間60ドルで、どちらでもプレイ可能
  27. Hiroshi Honda 「As Others See Us」『The Penn Stater』November/December 1990 p32-35 (The Pennsylvania State University)
  28. 代表者:Edward Junker理事長, Graham B. Spanier総長
  29. Hiroshi Honda 「Some Thought on American Academic and Educational Culture」『ASME Japan News』November 2008
  30. 過半の資金提供をしていただいた
  31. H. Honda (1999). “Ten Days and A Decade with Dr. John A. Brighton”. International MOSAIC (The Pennsylvania State University Office of International Programs) 3 (1). 
  32. 映画Something for Joeyにも出演
  33. H. Honda (1998). “Profile: Distinguished Alumnus Hiroshi Honda”. International MOSAIC (The Pennsylvania State University Office of International Programs) 2 (2). 
  34. 本田 2008bq.
  35. 本田 2006br.
  36. 本田 2000bs.