野島三郎

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野島 三郎(のじま さぶろう、1936年12月4日[1] - 2019年2月28日)は、新左翼活動家。革命的共産主義者同盟全国委員会(中核派)政治局員[2][3]。本名は木下尊晤(きのした たかあき)[1][4]。組織名は山川三郎[1]革マル派幹部の西条武夫(木下宏)は弟[5][6][注 1]

経歴[編集]

奈良県生まれ。1952年奈良県立奈良高等学校に入学。1954~1955年池内史郎(筆名:浜野哲夫)とともに日本共産党の最後の山村工作隊に参加[1]。1955年法政大学文学部に入学[1][注 2]。1957年池内とともに日本革命的共産主義者同盟西派)に加入。1958年3月黒田寛一主宰の『探究』グループに参加。白井朗の紹介で本多延嘉と出会う。1959年8月革共同第二次分裂で革命的共産主義者同盟全国委員会の結成に参加。労対として全線委員会(国鉄委員会)を組織するとともに東京東部地区委員会委員長を務めた[1]。1961年マルクス主義青年労働者同盟(マル青労同)の結成を指導[1][7]。1961年8月革共同第1回大会で政治局員に選出。1963年4月の革共同第三次分裂では革共同全国委(中核派)に残る[1]

1965年からの反戦青年委員会運動に関わり、のちに東京反戦世話人に就任。1968年に竹中明夫(小川登)関西地方委員会政治局書記長ら竹中派が集団脱党した後、関西地方委員会の再建に従事。1969年に本多延嘉書記長が破防法で逮捕された後、70年安保・沖縄闘争を関西で指導し、同時に関西全体の闘いを指導。差別・抑圧との闘いの戦線や反軍闘争も指導。1975年3月に本多延嘉書記長が革マル派に殺害されると、「反革命どもに血の処刑を」(1975年4月)を執筆・発表し、黒田寛一、松崎明土門肇の打倒を宣言。1976年に「3・14宣言――革共同の新たな戦闘宣言」(筆名:織田武雄)、1977年に「3・14アピール――勝利への怒涛の進撃」(筆名:織田武雄)を執筆・発表。1987年3月に「非公然体制下の男女関係問題で女性同志から告発を受け」、10月に政治局を解任された[1]。80年代後半以降、脳梗塞で倒れるなど多くの病気に襲われた[1][7]。1997年から2002年にかけて『清水丈夫選集』の各巻巻末の解説を執筆[1][7]。2005年に療養地を三里塚に移す。2014年に都内のアパートに移住[1]

2019年2月28日、腎不全とガンのため闘病中の病院で死去。享年82歳[4][注 3]

人物[編集]

中核派の政治局員で、その中心的理論家であった[3]法政大学文学部で小田切秀雄廣末保に師事し、『探究』第8号(1960年2月刊)に「芸術本質論序説」、『田中英光全集』(芳賀書店、1964-1965年)の「月報1」に「戦後革命の硝煙」を執筆した[4]陶山健一や野島三郎は反戦青年委員会の運動で共産主義労働者党樋口篤三と交流があった。樋口によると、野島は佐世保駅前にある共労党事務所をエンタープライズ寄港阻止闘争の連絡事務所に使わせてほしいと樋口を通じて共労党に提案してきたという。樋口は野島について「「田中英光論」等もある文学出身の党政治局員、東部地区・化学労組担当(当時の同派の政治局員は書記長等をのぞいて地区・産別を分担していた)。70年代に議長をしばらくつづけた後、何かの理由で役員を辞めた」と述べている[2]

著書[編集]

  • 『革共同の内戦論――現代の反ファシズム解放戦争』(前進社、1975年)
  • 『現代革命と内戦』(前進社、1977年)

脚注[編集]

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  1. 他に兄弟で中核派と革マル派に割れた例として、白井朗(山村克)と白井健一(山代冬樹)、小野田猛史(北川登)・襄二小野田圭介陶山健一(岸本健一)と鈴木啓一(森茂)がいる。
  2. 中核派によれば、1956年法政大学入学[7]
  3. 中核派によれば、膀胱がんの全身への転移などにより死去した[7]

出典[編集]

関連文献[編集]

  • 『中国革命と毛沢東主義の歴史的破産――アジアを反帝・反スタ世界革命の根拠地とせよ』(九州大学医学部病院反戦青年委員会気付中国問題研究会、1969年)
  • 小西誠『新左翼運動その再生への道』(社会批評社、2000年)
  • 水谷保孝岸宏一『革共同政治局の敗北1975〜2014――あるいは中核派の崩壊』(白順社、2015年)
  • 江村信晴編『本多延嘉 3・14虐殺死を超えて四五年』(白順社、2022年)