島流し

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島流し(しまながし,英:Island exile) は罪人を島または遠隔地に流刑すること。 江戸時代では「遠島」という。「流罪」ともいう。日本では、近代的な拘禁刑の移行により、1908年(明治41年)に廃止された。

場所[編集]

島流しの移送先は、隠岐諸島、鬼界ヶ島、壱岐島、佐渡島、 八丈島、三宅島などがある。京都以西で罪を犯した者は、五島列島、壱岐、天草などに島流しとなっていた。

古代の律令では、陸続きでありながら隔絶されていた伊豆半島や土佐も島流しの対象となっていた。

江戸幕藩下のローカルな施政下では、薩摩藩で沖永良部島が死罪寸前の流刑地とされた。

無断での島脱出は「島抜け」と呼ばれ、発覚した場合、さらに重罪が課された。

隠岐諸島[編集]

838年(承知五年)12月15日小野篁嵯峨上皇の怒りを買って隠岐諸島へ流罪となった。

1221年には後鳥羽上皇承久の乱により流された。

1332年にも後醍醐天皇が流されたが、名和長年らの支援で、なんと自力で脱出している。

伊豆半島[編集]

1160年(永暦元年)、前年に平治の乱で敗れた源頼朝が捕らえられたが、死罪を免れる代わりに流された。

鬼界ヶ島[編集]

1177年(治承元年)の鹿ケ谷の陰謀が発覚し、俊寛平康頼藤原成経が流された。

壱岐島[編集]

農民一揆の首謀者として小山弥兵衛が遠島になった。

天草[編集]

佐渡島[編集]

伊豆大島[編集]

  • 浄瑠璃坂の仇討で本懐を遂げた元宇都宮藩士奥平源八が、6年間流罪となった。
  • 間瀬正岑は父・間瀬正明に連座し大島に流罪となった。過酷な労働により早生。墓は罪人墓地(越後騒動の奸臣(叛意方)・小栗重良と併葬)にある。

八丈島[編集]

  • 宇喜多秀家は、豊臣秀吉の養子で、岡山57万石の大名で、五大老の一人であった。石田三成の西軍の副将格として1万6千の兵を率いて参加したが、小早川秀秋の寝返りによって西軍は敗北し、流刑となる。八丈島へは、息子2人の他に妻の実家である金沢の前田家の配慮で医者を含む主従を含め13人で渡った。
  • 江戸末期には旗本で探検家の近藤重蔵の息子近藤富蔵が、違法な庶民斬り付けで流罪となった。幕末動乱期や明治維新でも恩赦での帰還はできず、流人生活で著した「八丈実記」の事績を元に、明治も10年以上経って本州に帰還したが、結局、半世紀近くを過ごした島に戻って八丈島で逝去した。

三宅島[編集]

絵師の英一蝶、博徒の小金井小次郎、国学者の竹内式部、宗教家の井上正鐵、歌舞伎役者の生島新五郎などが流された。

沖永良部島[編集]

薩摩藩の藩法ではあるが、西郷隆盛が藩に無断で上洛して、国父の島津久光の怒りを買い、死罪一等免除で流された。このため、隆盛は薩英戦争に直面していない。

比喩[編集]

官公庁や企業の左遷人事で辺鄙な地域に異動になった際にも使われる。この場合は山流しも同義語で用いられる。