岡田藩
岡田藩(おかだはん)は、江戸時代から明治時代初期まで備中国に存在した藩である。藩主家は外様大名の伊東氏(1万石)。藩庁は岡田陣屋。現在の岡山県倉敷市真備町(旧真備郡真備町岡田)に存在した。
概要[編集]
この伊東氏とは、鎌倉時代から続く名門で、伊豆国河津庄を起源とする一族である。後に尾張国に一族は移り、伊東長実の時代に織田信長に仕えた。信長没後は豊臣秀吉に仕え、備中国川辺に1万石を与えられて大名となった。
慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは石田三成の挙兵を徳川家康に伝えるなどの通牒行為により、家康から所領を安堵された。ただしこの時点ではあくまで豊臣氏の家臣であり、大坂の陣では豊臣秀頼に従って大坂城に籠城して家康に敵対している。しかし、以前の関ヶ原での功績もあって罪を許され、戦後に所領安堵されてここに岡田藩が立藩された。敵対しているにも関わらず許されているのは、恐らく関ヶ原同様に家康と通牒していたからではないかと見られている。伊東氏の所領は美濃国・摂津国・河内国などに飛び地があり、合計して1万349石であった。
この藩で有名なのが、享保年間にあった新本義民騒動である。岡田藩は下道郡新本両村の入会山を取り上げて、薪などを商品化しようとした。これに激怒した農民が蜂起し、ここに騒動となる。享保3年(1718年)2月10日、村民は村から逃げ、その混乱に乗じて惣代4名が江戸にたどり着いて岡田藩邸に直訴した。当時の藩主・伊東長救は老中・水野忠之の指示を受けて6月7日にこの4名を磔に処したが、入会山は返還して騒動を鎮めるしかなかった。
また、享保11年(1726年)に地理学者として有名な古川古松軒が岡田藩領の本庄村の名主の長男として生まれている。
以後、明治維新まで伊東氏の支配が続いた。明治4年(1871年)の廃藩置県で岡田藩は消滅した。
歴代藩主[編集]
伊東家
- 外様。1万349石(1615年 - 1871年)