富樫館

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富樫館(とがしやかた)とは、現在の石川県野々市市本町2丁目にかつて存在したである。

概要[編集]

加賀国を支配した富樫氏は、平安時代前期の永延元年(987年)に富樫氏の第4代当主・富樫忠頼が加賀の国司に任命されたことを起源とする。平安時代中期の康平6年(1063年)に第7代当主・富樫家国は「布市」を「野々市」と改名して館を建築し、そこを加賀の国府とした。

鎌倉時代末期の元応2年(1320年)、当時の当主・富樫泰明鎌倉幕府の第14代執権北条高時から加賀の守護に任命されたのが、富樫氏の加賀守護としての起源である。その後、鎌倉幕府が滅ぶと、富樫氏は足利尊氏室町幕府に服属し、隣国の越前国守護大名となった斯波氏の配下として活躍した。ところが、富樫昌家が死去すると、本来なら富樫一族に継承されるはずの加賀守護職が斯波氏に渡ってしまっている。後に富樫満春の時代に加賀守護の地位を回復し、以後は富樫氏が加賀の守護大名として代々守護職を世襲した。

しかし、応仁の乱で室町幕府が事実上の権力を失い、さらに北陸に一向一揆の波が押し寄せる。長享2年(1488年)に第24代当主・富樫政親は一向一揆軍の攻撃を受けて加賀高尾城自害し、事実上加賀は「百姓の持ちたる国」となり、守護の力は以後有名無実と化した。石山本願寺蓮如は表面上は富樫氏を立て、富樫晴貞が傀儡守護として利用されたが、この晴貞も元亀元年(1570年)に伝燈寺で自害し、富樫氏は名実共に滅亡した。

現在、館跡には「富樫館跡」と刻まれた石碑が建立されており、石碑の裏面には「富樫氏歴代の居館としたところ、富樫城とも言い、九艘川と新兵衛川を外濠とした区域である」と記されている。遺構はほとんど残っておらず、付近の御所・館ノ内・御蔵跡・長土屋・馬場先などの地名から、富樫氏の居館があったものと推測されている。

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