加賀高尾城

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加賀高尾城(かがたかおじょう)とは、現在の石川県金沢市高尾町にかつて存在した日本である。

概要[編集]

この城の築城年代は不明である。記録でこの城が出てくるのは室町時代後期なので、当時の加賀国守護大名である富樫氏の築城かもしれない。

応仁の乱の最中である文明6年(1474年)、加賀国では内乱が発生していた。当時の加賀は南部を富樫政親が、北部をその弟の富樫幸千代が支配して互いに家督をめぐって争っていた。応仁の乱が発生すると前者が東軍、後者が西軍に分かれて争っていたのである。幸千代は西軍の甲斐氏の支援を受けて政親を破り、敗れた政親は越前国守護大名にのし上がろうとしていた朝倉孝景を頼って落ち延びる。孝景・政親は当時、北陸に勢力を拡大していた一向一揆に目をつけ、その総帥である蓮如に対して支援を要請した。蓮如はこれに応じて吉崎の多屋衆(警護衆のこと)、加賀の一向門徒に対して蜂起を命じた。

こうして政親・孝景・蓮如の三者による大連合軍は文明6年(1474年)7月に加賀に攻め入ると、わずか3ヵ月後の10月には幸千代の居城である蓮台寺城を落とし、幸千代を京都に追放して政親が加賀の守護にのし上がった。ところがその後、政親の強権的な領国政策と予想以上に一向門徒の勢力が強くなりだしたことから政親と蓮如との間に対立が発生する。政親はこれに対して一向門徒を徹底的に弾圧する強圧策を採用したことから蓮如や門徒は激怒し、文明7年(1475年)に反乱を起こした。しかしこの時の反乱は富樫軍の勝利に終わり、蓮如は京都に引き揚げた。

その後、政親はこの勝利をいいことにさらに守護の独裁を強めて自身に権力を集中し、門徒は徹底的に弾圧した。これに門徒の怒りが遂に爆発し、長享2年(1488年)に20万という前代未聞の一向一揆の反乱が勃発する。このとき、政親の率いる軍勢はわずかに500名であり、政親は籠城して戦うも衆寡敵せず、遂に高尾城内で自害した。以後、富樫氏は一向一揆によって傀儡守護が擁立され、加賀は事実上「百姓の持ちたる国」となってしまった。

高尾城は金沢市の南西郊外の高尾町に存在した城であり、北陸高速道路建設の土取り場になって山容・城跡共に現在は破壊されている。そして、この城跡から南に1キロほど下った額谷に御廟谷と呼ばれる場所があり、そこに富樫氏の墓と伝えられている五輪塔が4基、円墳が1つあり、いずれも石川県の史跡に指定されている。

アクセス[編集]