安藤馨 (企業家)
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安藤 馨(あんどう かおる、大正3年(1914年)5月11日 - 平成9年(1997年)11月20日)は、企業家である。日本における汎用計算機ビジネスを確立し、日本コンピューター業界のパイオニアと言われる。母はバイオリニストの安藤幸。叔母の幸田延は日本の洋楽黎明期を作った第一人者であり作曲家、ピアニスト。叔父に幸田露伴。
経歴[編集]
- 1914年、英文学者安藤勝一郎を父、幸田露伴の妹でバイオリニストの安藤幸を母として東京小石川に生まれる。
- 1932年、渡米する。
- 1936年6月、インディアナ大学経営学部(ビジネススクール)を卒業。計量経済学を学ぶ。
- 1937年、帰国し日本IBMの前身の日本ワトソン統計会計機械株式会社(現日本IBM)に入社し。PCS(パンチカードシステム)の営業を担当した。後年、特別代表員となる。
- 1941年12月、スパイ容疑で逮捕されたが、叔父で法務大臣の岩村通世の助力で釈放される。神戸に赴いて北川宗助らと統計研究所を設立した。
- 1945年9月、日本の敗戦と同時に連合軍総司令部(GHQ)の戦略爆撃調査団に所属。
- 1946年1月、終戦後、アメリカ留学中の人脈により、占領軍総司令部(GHQ)の顧問となる。PCSを活用して戦略爆撃調査や社会統計、経済統計、統計分析のシミュレーションなどを手がけた。安藤の活躍により、多くの日本人がGHQや在日アメリカ軍基地の情報処理部門に採用された。
- 1960年、日本IBMの常務取締役となる。
- 1963年、アジアIBMの特別補佐となる。
- 1964年、1964年東京オリンピックの時、IBM1410計算機・オンラインシステムを駆使した集計システムを開発。計算機を使ってオリンピックの記録を集計した最初の試みと言われる。
- 1966年、日本IBMから富士通に移る。国産の計算機メーカには技術力はあるものの、弱い営業部門・マーケティング部門の強化に尽力した。富士通ファコムを設立し、同社社長に就任。
- 1967年、富士通ファコムの再編により、教育部門を富士通電子計算機専門学校として独立させ校長となる。電算機メーカが直接指導する電子計算機学校は我が国初。
- 1970年、富士通常務。
- 1974年、藍綬褒章。
- 1979年、インディアナ大学名誉博士。
- 1983年、日本人で初めての情報処理国際連合(IFIP)会長。
- 1992年、富士通を退職。
- 1997年11月20日、逝去。享年83。多磨霊園に埋葬。墓石前面は「河本家墓」。右面が墓誌。
人物 [編集]
- 最初の東京オリンピックをコンピュータ・システムで管理しようと考えていた日本オリンピック委員会(JOC)は、日本レミントン・ユニバック(現・日本ユニシス)に打診した。その時、同社は労働省・職業安定所のオンラインシステムにかかり切りであった。そこで日本IBMが候補となった。日本IBMから米本社に相談すると、「ユニバック以外では無理なので、断るように」という返事がきた。これを聞いた米本社社長トーマス・ワトソン・ジュニアは「いつからIBM社は“挑戦”を忘れたか」と激怒し、受注が決まった。東京オリンピックの成績集計システムの開発が始まったのは1963年である。262人の開発チームを率いるのは、後年に富士通に移りプログラマ育成に尽力した安藤馨であった。統括者の安藤の「こういう仕事を専門にする技術者を何と呼べばいいか」という質問から「システムエンジニア」という用語が考案された。
- 早い段階で情報リテラシーやクロスカルチャーの重要性を世に訴えた[1]。
受賞[編集]
参考文献・注釈[編集]
- ↑ 山本卓真「名誉会員 安藤薫氏を偲ぶ」情報処理,Vol39,No2