システムエンジニア

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システムエンジニアとは、人の形をした何かである。SEとも呼ばれる。

概要[編集]

システム開発の現場に現れるとされるが、会社人間としてとしての要求の三つの重大な美徳のうち、どれかを一つを欠いている。
本物のシステムエンジニアは、仕事熱心である。有能であり、仕事ができる。ただし上の人間の言うことを聞かない。したがって黒山羊とされ生贄とされる。
そうでないものにも二種いて、そのうちの一種が「本物のプログラマ」という人間である。プログラムを書くことに熱心で吐くコードは美しい。
けれど、「私は現場が好きで、プログラムを書くのが好きだ。だから管理職なんかにはなりたくない」と公然と言い放つ。大きな仕事の場合はこういう奴がキーマンになる。現場の技術史には崇敬され「救い主」とも呼ばる。何度も修羅場をくぐり抜けてきた実績はあるが、こういう人間はマネージャーに嫌われるため、「あれは、たまたまだ」「あれは非常事態だったから」と無視され、冷遇されて職場を追われたりする。「会社が求めている、もっといえば社会が求めているのは、能力は人並み以上で、無個性で一様で、命令に忠実な人間なんだよ」とかホザく奴がいる。
そういう輩を抜擢して大きな仕事をまかせたがるエラい人は多いらしい。成功したら手柄は自分のもの、実際の現場の苦労や功績も正当には評価されず、「自分には、やっぱ り人を見る目があったんだな」と満足し納得する。
これが、失敗したなら(「それなりの評価」は成功ではなく、大成功をおさめて絶賛され、今後の大きな躍進を期待されてこそ「成功」である)、「キミには失望させられたよ」「たしかに不利な条件ががあったかもしれないが、それに対処するのがキミの役割だろう?」とか言って背を向け、自分の退職金の皮算用とかをしている奴がいて、そういう奴はさらに上の奴に操られていたりする。
でまぁ、そういう奴は無能である。そのかわり無駄に忙しく仕事の足を引っ張る。「忙しい」は「心を失くす」という字を書くが、そういう奴は心を亡くした「哲学的ゾンビ」である。

ナチとの類似[編集]

第二次世界大戦下では、こういう小話があったという。
「人間は『知的である』『勤勉である』『ナチである』という三つの美徳を兼備えることはできない。すなわち、
 知的で勤勉な人物はナチではない。
 知的なナチは勤勉ではない。
 勤勉なナチは知的ではない。」
ナチは「国民労働者党」の略であり、「国民のために」か看板であった。
われわれはナチス体制下のドイツで生きているのだろうか。
救いになりそうな点はいくつかある。
現在の日本にはアドルフ・ヒトラーのようなカリスマがいない[1]
智的で有能でなければ、大規模な開発プロジェクトのリーダー(システムエンジニア)は務まらない。
それでも有能なシステムエンジニアはいる。ただし、ろくにプログラムも書いたことがない(というか、そもそもプログラムも書けないクセにプログラマを下賤の者だと思って心中で嗤いものにしている)奴が、「システムエンジニア」という肩書をつけられて「上流工程を担当しています」とかいって現場で幅をきかせている日本の現状はどこかがおかしい。そこを改善してこそ、日本の産業の国際競争力は上がるのだろうと思う。

脚注[編集]

  1. 安倍晋三は「カリスマ」というタイプではなかったが、カリスマと見做されて暗殺された

関連項目[編集]