何植
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何 植(か しょく、生没年不詳)は、中国の三国時代の呉の武将。字は元幹(げんかん)[1]。父は何遂。姉は何姫(孫和の妻)。
生涯[編集]
揚州丹陽郡句容県の出身[1]。姉の何氏は孫和の側室で孫皓の生母であるため、253年に孫和と正室の張氏が自殺すると何氏が孫皓ら孫和の遺児を養育した[1]。そのため、264年に孫皓が呉の皇帝として即位すると、何氏は皇太后に取り立てられ、何氏一族が外戚として取り立てられ、何植は宜城侯に封じられた。279年に牛渚都督から司徒に昇進し、280年に西晋に呉が攻められた際には孫皓から書状で善後策を求められている[1]。西晋に降伏したところまではわかっているが、戦後の行方は不明[1]。
『三国志演義』では最終回で西晋の侵攻を受けて孫皓から善後策を問われるが、何も答えられない無能な人物として描かれている[1]。