昭献皇后
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昭献皇后(しょうけんこうごう、生没年不詳)は、中国の三国時代の呉の女性。呉の初代皇帝・孫権の皇太子であった孫和の側室。第4代皇帝・孫皓の生母。通称は何姫(かき)[1]。
生涯[編集]
丹陽郡向容県の出身[1][2]。呉の騎兵であった何遂の娘で、孫権に見初められて後宮に入る[1]。弟に何植がいる。242年に孫和との間に長男・孫皓を生んだ[1][2]。
しかし二宮の変で孫和が呉の皇太子位から追われて失脚し、253年には孫峻により正室の張妃と共に自殺させられてしまう[1]。この際、何姫は殉死せずに残された孫和の遺児である孫皓らの育児を務めた[1][2]。このため、264年に孫皓が呉の第4代皇帝に即位すると昭憲皇后の位を贈られて升平宮と称され、さらに皇太后の位も贈られた[1]。また何姫の弟ら親族も孫皓の政権下において重用されたが、何一族は孫皓の暴政に輪をかけるように専横を振るい、民衆を大いに苦しめたと伝わる[1]。