妻籠城
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妻籠城(つまごじょう)とは、現在の長野県木曽郡南木曽町吾妻にかつて存在した日本の城である。
概要[編集]
木曽川とその支流蘭川の合流点の西側、比高およそ150メートルのところに存在した山城である。この城は美濃口と伊那口を抑える重要拠点の1つであった。
築城年代については室町時代後期の文明年間(1469年 − 1487年)に木曽家豊の弟である三留野家教が砦を構えたのが起源といわれる。天正10年(1582年)、木曽義昌の時代に城構えが大幅に改められた(『吉蘇志略』)。
木曽義昌は城構えを改めた年に織田信長に通じて武田勝頼から離反し、武田征伐で先導役を務めて甲斐武田氏の滅亡に一役買った。勝頼と信長が同年に死去すると、徳川家康に属するも天正12年(1584年)の小牧・長久手の戦いでは羽柴秀吉に属して家康に敵対し、一時期は農民の掲げる紙旗を羽柴の援軍と偽装させて徳川軍を撤退させるなどした。
後に木曽氏は家康の関東移封と共に関東に移り、妻籠城は廃城になった。現在は空堀跡が残るのみで、頂上からは妻籠宿や中央アルプスを眺望することができる。