陳式
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陳 式(ちん しょく または ちん しき、生没年不詳)は、中国の後漢末期から三国時代にかけての蜀の武将。一説に『三国志』の著者である陳寿の父とされているが[1]、『晋書』「陳寿伝」等にはそのような記述はない。本籍地は不明。
生涯[編集]
218年からの劉備の漢中郡侵攻戦に従い、馬鳴閣街道の封鎖を務めるが曹操配下の徐晃に敗れる[1]。222年の夷陵の戦いでは呉班と共に水軍を率いて夷陵に駐屯した[1]。229年の諸葛亮の北伐では魏領の武都郡と陰平郡を奪取し、魏将の郭淮と戦おうとしたが、諸葛亮が建威郡まで侵攻してきたので郭淮は利あらずと見て退却した[1]。以後、陳式は史書に登場しない[1]。
『三国志演義』では「弘治本(嘉靖本)」で陳寿の父とされている[1]。初登場は第71回の漢中争奪戦であり、黄忠の副将となっている[1]。武勇には優れているが知略に乏しい猪武者のように描かれ、夏侯尚と戦っている時に夏侯淵の策略でわざと負けて撤退したのを深追いして生け捕られる[1]。後に夏侯尚も同じような策略で生け捕られて人質交換されて蜀に戻る[1]。次に登場するのは第100回の諸葛亮の第3次北伐であり、以前と同じように敵を深追いして罠にはまり、魏軍の伏兵にあって大敗を喫する[1]。この時は魏延に助けられるが、帰還後に魏延に罪をなすりつけようとしたことが諸葛亮の怒りを買って軍法違反の罪により処刑された[1]。