賀斉
賀 斉(が せい、? - 227年)は、中国の後漢末期から三国時代にかけての呉の武将。字は公苗(こうびょう)[1][2]。父は賀輔。子は賀達・賀景。孫は賀質・賀邵・賀恵。曾孫は賀循。玄孫は賀隰。
生涯[編集]
揚州会稽郡山陰県の出身[1][2]。元の姓は慶氏である。賀斉の伯父の慶純は学者として名があり、安帝の時代に侍中・江夏太守を務めた人物である。安帝の父の名を避けて賀氏に改めた。賀斉の父は永寧県長を務めている。
賀斉は最初は郡の役人となり、後に県長代行に任命される[1]。196年に孫策が会稽郡を支配下に置くと孝廉に推挙されて永寧県の長に任命される[1]。王朗の残党が反乱を起こし、南郡都尉の韓晏がその鎮圧に失敗すると、後任に賀斉が任命されたが兵力が少ないので山越族をそそのかして内部抗争に発展させ、反乱軍の力が弱まったところを討伐して平定する[1]。
200年に孫策が死去すると孫権に仕え、不服従民の反乱がおこるたびに賀斉がその討伐を担当してその功績により平東校尉に任命される[1]。その後も反乱鎮圧に従事して威武中郎将・偏将軍・奮武将軍に昇進し、陸遜と共に反乱鎮圧に貢献して安東将軍に昇進し、山陰侯に封じられる[2]。
215年には孫権に従って合肥攻めに参加し、徐盛が負傷して旗指物を曹操軍に奪われた際には賀斉は兵を指揮して戦い奪い返した[1]。222年に曹丕(文帝)率いる魏軍が攻めて来ると、洞口で暴風にあった呉軍が大打撃を受ける中で賀斉の軍だけは新市で防御にあたっていたので無傷で済んだため、軍を立て直したという[1]。賀斉は豪奢できらびやかなことを好む派手好きな武将で、特に甲冑や武具や軍船の装飾を派手にしたりしたので、魏の曹休はその威容に恐れをなして撤退し、この功績により後将軍に昇進して仮節を与えられ、さらぶ徐州牧に任命された[1][2]。後に魏に寝返った蘄春太守の晋宗を生け捕りにした[1]。227年に死去[1]。