羊祜
羊 祜(よう こ、221年 - 278年)は、中国の三国時代の魏から西晋にかけての武将。字は叔子(しゅくし)[1]。曾祖父は羊儒。祖父は羊続。父は羊衜。母は蔡邕の娘。伯父は羊秘。妻は蔡氏。叔父は羊耽(妻は辛憲英)。異母兄は羊発(母は孔融の娘)。同母兄姉は羊承・羊徽瑜(司馬師の妻、献皇后)。妻は夏侯覇の娘。伯母(一説には母)は蔡琰。
生涯[編集]
泰山郡南城県の出身[1]。蔡邕の外孫で、身長は7尺3寸(およそ168センチ)で、髭の美しい容姿端麗であり、博学で話し上手だったという[1]。魏の時代に曹爽が権勢を振るっていた頃、王沈と共に曹爽から招聘されるが仕官はしなかった[1]。このため、249年の高平陵の変で曹爽一派が司馬懿により粛清されると王沈は連座して免職されたが、羊祜は連座しなかった。しかし高平陵の変でその一派に連なる夏侯覇が蜀に亡命したため、夏侯覇に連なる縁戚の多くが絶縁状を叩き付けて夏侯覇と縁を切った[1]。羊祜は妻が夏侯覇の娘であったが、妻を離縁することなく慈愛を施し、連座はされなかったという[2]。
司馬懿の死後、長男の司馬師が大将軍として政権を掌握すると、羊祜は招聘を受けるがまたも断った[1]。しかし魏の皇帝からの招聘も受けたため[3]、承諾して仕官し、中書侍郎となる[1]。元帝の時代には相国従事郎中に任命される[1]。
265年、西晋が成立すると都督荊州諸軍事に任命されて、敵国である呉の荊州牧・陸抗と対峙する[1]。この際に羊祜と陸抗は敵同士ながら互いに互いを認め合い、信義と徳をもって交流をした[1]。両者が国境で狩りをした時、羊祜は境を越えないように勢子を使い、獲物の中で呉の矢の刺さったものは全て呉に届けたという。この好意を受けて陸抗は酒を羊祜に贈り、羊祜も返礼として薬を陸抗に贈り、両者共に毒見も無しに飲んだという[1]。
272年、西晋に投降した歩闡を救うため西陵を救援したが、陸抗に阻まれた。
274年にその陸抗が死去したので、羊祜は西晋の皇帝・武帝に対して「呉を討伐する機会である」と上奏し、王濬に軍船の建造を命令するが、多くの群臣の反対を受けて征伐は中止となり、羊祜の存命中に呉征伐が行なわれることはなかった[4]。
278年に58歳で病死した。死の直前、呉征伐の後任の司令官に杜預を推挙し[1]、その杜預によって羊祜の死去から2年後に呉征伐は果たされることになる。
『三国志演義』では最終回で登場し、史実とほぼ同じように活動する。病死後に羊祜を慕う人々によって廟と石碑が建立され、読んだ人々が涙を堕したので「堕涙の碑」と言われるようになった[1]。