利用者:竹中半兵衛タイプR/作業場3
身はたとえ南山の苔に埋るとも、魂魄は常に北闕の天を望まんと思ふ
- 後醍醐天皇
今はこれまで
- 新田義貞 自害直前の言葉
前史[編集]
弘安の役[編集]
弘安の役 | |
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戦争: 元寇 | |
年月日: 1281年5月3日 | |
場所: 博多湾沿岸 | |
結果: 鎌倉幕府の勝利 | |
交戦勢力 | |
元 | 鎌倉幕府 |
指揮官 | |
フビライ | 北条時宗 |
戦力 | |
143,000 | 15,000 |
損害 | |
??? | ??? |
文禄の役の後、フビライは鎌倉幕府に対して壊滅的なダメージを与え、その後すぐに国書を送った。しかしその国書を送った使者は即時に晒し首になった。
その後幕府は攻撃力の向上・防御力の向上を念頭において、さまざまな改革を進めていった。兵力を倍に高めさせる他、少弐氏の当主である少弐経資が異国征伐の計画を立てている[1]。防御面では、博多湾沿岸部に石塁という石製の塀を造らせることが大きな影響を与えることとなった。
当時、元では宋の侵略で日本に亡命してきた僧侶が多発しており、そこから情報を聞き入れることができたと思われ、元軍の特徴を入手することに成功した利点があった。しかし元国統治下の宋・朝鮮半島では造船業を発達させられていて、元は日本侵略への大きな一歩を踏み出した事がデメリットとされ、船での侵略向上へと進んでしまった。
1281年5月3日、元軍が朝鮮から4万の大軍、中国大陸から10万の大軍が日本を襲った。まず両軍は壱岐島にて合流して、そこから肥前国やその他、博多湾へと攻撃を仕掛けた。しかし朝鮮軍は思うように動けず、石塁によって阻まれた。この時に石塁を使って生の松原方面から移動した竹崎季長が弓での攻撃で武功を挙げている。さらに夜襲の際、日本軍は能古島・志賀島南部の海上方面にて停泊している元軍の船を攻撃したりもしている。朝鮮軍は撤退して、志賀島へと逃げ込み、志賀海神社に拠点を築いた。しかしあっという間に日本軍は志賀島奇襲に成功して朝鮮元軍をさらに北へと追いやった。壱岐島で宋軍を待つことにしたが、宋軍の大将である阿羅漢が病死した事で宋軍全体はゴタゴタ状態になり、結局阿塔海を大将とする事で合意した。朝鮮元軍と宋軍は合流して、鷹島へと向かった。これが有名な鷹島合戦である。鷹島合戦では「てつはう」が使われ、超爆発を放って日本に猛攻した。ここでは成功して鷹島を占領した。が、7月30日、「神風」と呼ばれる台風が近づいて、8月初旬には船が転覆し、生き残りの朝鮮軍も撤退した。この「神風」により日本軍は元軍の完全消滅に成功させ、鎌倉幕府の支持を得ると思われた。
9代執権の政治[編集]
北条時宗が1284年に死去した後、執権は9代北条貞時へと渡った。貞時は御家人の不満を抹消させる為に徳政令を定めた。徳政令とは、過去に御家人が売ったりした土地を、申し込めば土地を返してもらえる+借金の帳消しするという感じの政策である。これで御家人達の不満は解消され、幕府滅亡の危機から逃れた。しかし元々土地を買った者(北条一族や、神主など)はもちろん土地を返すなんて言いたく無いため、実際は逆に御家人に不満が跳ね返されていった。
御家人はもちろん黙っては居ずに、遂に神主などが保有している土地への襲撃などを繰り返す様になった。この襲撃軍団は「悪党」と呼ばれ、そのトップとして楠木正成が幕府対抗の姿勢をとっていた。
楠木正成と霜月騒動[編集]
楠木正成は南朝に永遠の忠誠を誓い、最後足利尊氏と対立し亡くなった日本一の忠臣として有名だが、正成は元々南朝方ではなく尊氏と同じで幕府の御家人であり、北条得宗家の家臣だったという話もある程。
霜月騒動[編集]
霜月騒動 | |
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戦争: 霜月騒動 | |
年月日: 1284年11月17日 | |
場所: 鎌倉府 | |
結果: 平頼綱の勝利、安達泰盛 | |
交戦勢力 | |
幕府軍 | 悪党 |
指揮官 | |
安達泰盛 | 平頼綱 |
戦力 | |
??? | ??? |
損害 | |
500以上 | ??? |
平頼綱にとっては、安達泰盛の政治が独裁的な北条氏の執権政治を行うことに泰盛は邪魔な存在であり、頼綱は徹底的に泰盛の排除計画を抱いていた。そこで頼綱は、幕府側に対して「泰盛が謀反を計画し、将軍職を乗っ取ろうとしている」と言いがかりをつけ、泰盛に戦いを仕掛けたのである。騒動は泥沼戦となり、一時は決着がつかないようにも思えたが、泰盛の討ち死ににより頼綱の勝利が決まった。この時正成は武功を挙げたが、頼綱の勝利により幕府側から離れることとなる。
平頼綱の乱[編集]
霜月騒動の後、頼綱は事実上政権を乗っ取った状態にあり、政治の実権を握った[2]。が、惟康親王や執権貞時が彼よりも高い位である将軍職に就いていた。頼綱はもっと高い位を目指す為にまず貞時の位を従四位上に押し上げた。これにより貞時は位の5階級突進を果たし、時宗でも得られなかった位にまでのし上がった。一方、その功績が認められたのか頼綱は左衛門尉の位を与えられた。
1287年、惟康親王の朝廷返還を求め、成功させる。これにより惟康親王は鎌倉を退去し、2年後に久明親王を即位させた。執権の家臣が朝廷を動かしているのである。1289年頃から、頼綱の子・平宗綱は父・頼綱と対立し、やがて頼綱から離れていき、幕府側により綱の横暴ぶりを伝えようとしていた。そして1293年、幕府側に頼綱の謀反計画を執権・貞時に伝えた。貞時も流石に激怒し、挙兵しようとしていた所、1ヶ月後にマグニチュード7.1の巨大地震が鎌倉を襲った。幕府はかなりゴッタゴタになったが、その1ヶ月後に貞時がようやく挙兵、頼綱邸を攻撃した。結果的に頼綱邸は炎上、平頼経・頼綱は討死した。これにより頼綱の約8年に渡る政権乗っ取りから解放され、新たな道を歩んで行った。
北条高時の時代[編集]
執権就任と長崎親子[編集]
高時は父・貞時が亡くなり北條得宗家当主となり、1316年に執権に就任した。秋田城介、安達時顕、長崎高綱(長崎高資の父)が補佐を務め(内官僚職)、政治を行うこととした。同年に高綱は高資に内官僚職を譲った。高資は正当な政治を行うよう高時に猛説得したが、高時は動かなかった。
安藤一族の乱[編集]
安藤一族の乱 | |
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戦争: 安藤一族の乱 | |
年月日: 1322年 | |
場所: 蝦夷、津軽、奥州 | |
結果: 南部信継により鎮圧。 | |
交戦勢力 | |
安藤宗家 | 安藤庶家 |
指揮官 | |
安藤季長 | 安藤季久 |
戦力 | |
??? | ??? |
損害 | |
??? | ??? |
1322年に安藤季長と安藤季久(季長の従兄弟?)の二人は津軽国の所領を巡って対立が激化し、激しい内乱が起こった。高資はこの事態に対して賄賂を送られたが、高時などは十分な裁定をせずにそのまま放置した為さらに内乱は激化した。さらに1325年に季長にあった形式上利権を取り上げ、季久に与えたということが原因で内乱は鎮圧されたと思いきや季長はもちろん黙っておらず、堅城を築城して籠城戦となった。しかしこれでも多大な損害が出ただけで決着はつかず、1326年には安藤季兼が蜂起、工藤氏、南部氏などを送って乱の鎮圧、翌年には小田入道、尾張高知、宇都宮高貞らを派遣し乱の鎮圧に踏み出した。最終的には1328年に南部信継が和睦交渉、成立して事実上鎮圧したことで終了した。
後醍醐天皇の挙兵[編集]
正中の変[編集]
正中の変 | |
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戦争: | |
年月日: 1324年 | |
場所: 六波羅探題周辺 | |
結果: 幕府軍の勝利、後醍醐天皇の釈明、日野俊基らの逮捕 | |
交戦勢力 | |
朝廷軍 | 幕府軍 |
指揮官 | |
後醍醐天皇 楠木正成 土岐頼兼 多治見国長 日野俊基 日野資朝 |
北条範貞 北条高時 |
戦力 | |
??? | ??? |
損害 | |
??? | ??? |
後醍醐天皇は安藤氏の乱、その他諸々の内乱で力を失った幕府を見据えて、京都を守備する六波羅探題に攻め込む計画を立てた。しかし天皇が攻め込む前に六波羅探題にて北条範貞がその密告を受け、後醍醐天皇側に攻め込むクーデターを起こした。最終的に天皇側の降伏で鎮圧され、天皇側の有力家臣らは処刑、もしくはクーデターによる戦死を遂げた。そのうち日野資朝は佐渡島への島流し、日野俊基は放免という結果も出た。やがて俊基は亡くなり、俊基を祀る神社として葛原岡に神社(葛原岡神社)と墓が建てられている。
元弘の変[編集]
元弘の変 | |
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戦争: | |
年月日: 1331年 | |
場所: 山城国 | |
結果: 幕府軍の勝利、後醍醐天皇の隠岐追放 | |
交戦勢力 | |
朝廷軍 | 幕府軍 |
指揮官 | |
後醍醐天皇 | 足利尊氏 |
戦力 | |
??? | ??? |
損害 | |
??? | ??? |
正中の変から7年後、後醍醐天皇は再び挙兵。首謀者は釈放された日野俊基であった。しかし後醍醐天皇側近の吉田定房が六波羅探題へと密告したため幕府は後醍醐天皇逮捕へ動き、日野俊基らが捕らえられ北鎌倉の葛原岡にて処刑された。幕府の内紛処理で泥沼状態となっている際、後醍醐天皇らは比叡山へと逃げて僧兵らと六波羅探題を総攻撃しようとしたが、この計画も定房により漏れ、後醍醐天皇はこれを察知して南山城に位置している笠置山に城を築いて籠城した。9月3日に六波羅探題は後醍醐天皇に謀反の疑い有りとして笠置山に75000の軍勢を差し向けたが、笠置山城を攻めあぐねたため幕府が20万の大軍を差し向けて一瞬のうちに落城させた。後醍醐天皇は城から間一髪で抜け出し、有王山にて捕縛されて1332年3月に隠岐島へと流刑となった。