上杉憲秋
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上杉 憲秋(うえすぎ のりあき、? - 享徳4年1月21日(1455年2月7日))は、室町時代中期の武将。上杉氏の一族である犬懸上杉氏の出身。父は上杉禅秀。兄弟に憲方、憲春、持房、快尊、禅欽蔵主、教朝。子に憲久、憲定。官途は宮内大輔・刑部大輔[1]。
生涯[編集]
諱に関しては憲顕とも記録されている(『喜連川判鑑』『上杉系図』)。応永24年(1417年)に上杉禅秀の乱を起こした父が足利持氏に敗れて自殺すると、憲秋は京都に逃れて第4代将軍・足利義持の幕臣となる[1]。応永29年(1422年)に弟の教朝と共に義持に対して持氏討伐を嘆願し、軍勢を率いて東下して持氏軍と戦った[1]。
享徳4年(1455年)1月、武蔵分倍河原の戦いで足利成氏と戦って負傷し、高幡において自殺した[1]。ただし『喜連川判鑑』では自殺した場所が池亀となっている。