三河中島藩

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三河中島藩(みかわなかじまはん)は、江戸時代前期の寛永16年(1639年)から寛文12年(1672年)の短期間に三河国額田郡(現在の愛知県岡崎市中島町)に存在したである。藩庁は中島陣屋。藩主家は譜代大名板倉氏で、石高は最終的に5万石になった。

概要[編集]

島原の乱が発生した際、徳川家光よりその鎮圧を命じられていた板倉重昌(三河深溝藩主)は、鎮圧することができずに寛永15年(1638年元旦戦死した。幕府は新たに老中松平信綱を総大将とした大軍を送り、その際に重昌の遺児・重矩は父の死の弔い合戦として武功を立てたものの、父の鎮圧に関する不手際と自らの軍律違反などを理由にして家光から逼塞を命じられた。

島原の乱鎮圧後の寛永16年(1639年)、重矩は罪を許されて板倉家の家督と遺領深溝藩主の座を継ぐこととなり、この際に重矩は藩庁を深溝から中島に移したため、以後は中島藩主となった。

重矩は譜代大名の名門・板倉家の出身であり、伯父が京都所司代として辣腕を振るっていた重宗であったことから、幕府の要職を歴任してゆくことになる。万治3年(1660年)には大坂定番に就任し、それにより摂津国内に1万石を加増されて2万石となる。寛文5年(1665年)には老中に栄進し、寛文6年(1666年)には武蔵秩父や上野碓氷、相模国内などにおいて2万石をさらに加増されて4万石となる。寛文8年(1668年)には祖父勝重、伯父の重宗が歴任していた京都所司代に就任した。なお、京都所司代で同族が3代にわたって世襲したのはこれが最初で最後である。

寛文10年(1670年)、老中に再任され、寛文11年(1671年)には三河足助、上総東金、武蔵神奈川などにおいて1万石を加増され、三河中島藩は5万石となった。寛文12年(1672年)、父祖の勲功や重矩のこれまでの功績などを評価されて、下野烏山藩に5万石で移封され、ここに三河中島藩は廃藩となった。

歴代藩主[編集]

板倉家

譜代。1万石→2万石→4万石→5万石。

  1. 重矩(しげのり)