リチャード1世 (イングランド王)

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リチャード1世(Richard I、1157年9月8日 - 1199年4月6日)は、イギリスプランタジネット朝(アンジュー朝)の第2代イングランド国王(在位:1189年 - 1199年)。父はヘンリー2世。母はアリエノール・ダキテーヌ。妃はベレンガリア・オブ・ナヴァールナバラサンチョ6世の娘)。

政治家としては無能だったが軍人としては優秀で、その勇猛さから獅子心王(しししんおう)と呼ばれているイギリスの歴代国王の中でも特に著名な人物である。

生涯[編集]

父との争い[編集]

ヘンリー2世の3男[1]で子供としては4人目。1172年に母からフランス南部のアテキーヌ公領を継いでアテキーヌ公となる[1]。以後、その卓越した軍事才能をもって反抗的な領主層を尽く打ち破り自己の権威と勇名を高めた。

しかしリチャードは父王とは仲が良くなく、父母の争いやフランスにおけるイギリスの大陸領をめぐりたびたび父と対立し、兄と手を結んで反乱を起こす[1]。これは父王が末弟のジョンに領地を与えるためにリチャードらに与えていた土地を幾らか分割するように要求したことが発端とされ、リチャードは父に勝利するため本来は敵対関係にあったフランスのフィリップ2世にすら臣従し[1]、遂には最初は父王に味方していたジョンの寝返りもあって父王を憤死に追い込み、1189年にリチャードが王位を継承することになった[1]

サラディンとの戦い[編集]

この頃、シリアにおける十字軍諸侯はアイユーブ朝サラディン率いるイスラム勢力により苦境に立たされており、王位を継承したリチャードは十字軍遠征を希望する。軍費を確保するために大胆な官職・権利売却を行ない、フランス王国のフィリップ2世や神聖ローマ帝国皇帝フリードリヒ1世バルバロッサと手を結んで第3回十字軍を興し、海路から遠征した。この途上にキプロス島を征服してベレンガリア・オブ・ナヴァールと結婚している。

1191年にはシリアでアッコンを攻めていた十字軍と合流し同地を攻略し、この際に捕虜を全員処刑してしまった。ところがこの第3回十字軍はイギリス・フランス・神聖ローマ帝国という西欧でも強国揃いであったにも関わらず、サラディンの激しい抵抗にあって思うような戦果を挙げられなかった。フリードリヒ1世バルバロッサは1190年に遠征途上で溺死し、フィリップ2世とはアッコン攻略を機にリチャードと反目して帰国してしまい、リチャードのみが残ることになってしまった。それでもリチャードは進軍してサラディンと戦い、重装騎兵と弓兵の巧みな提携をもって局地戦では常にサラディンに勝利していた。だが、サラディンの粘り強い抵抗に遂にエルサレムの奪回は果たせず、また留守中のイギリス本国では留守を任されていた末弟のジョンがフィリップ2世と手を結んで王位を奪おうという謀反を計画したため[1]、リチャードは1192年に至りやむなくサラディンと休戦協定を結ぶ。この協定はシリア沿岸の僅かな領土保持とキリスト教徒の聖地エルサレムへの巡礼の権利承認にすぎず、華々しい戦いとは裏腹に戦果は乏しいものであった。

捕虜と復活[編集]

シリアからの帰路には海難、並びにフランスとの対立の事情で陸路を取る。ところがかつて遠征先でリチャード1世から屈辱を受けたオーストリア公・レオポルト5世によって逮捕されて捕虜となる。その後、身柄は神聖ローマ皇帝・ハインリヒ6世に引き渡され、ここで2年間の虜囚生活を受ける[1]

リチャードが捕虜になったことを知ったイギリス本国では、重臣のヒューバート・ウォルターがリチャード解放に向けて奔走する。1194年に至りハインリヒ6世はウォルターに対して10万マルクという膨大な身代金の支払いを条件に解放することを約束し、ウォルターはそれを受け入れて様々な税制改革や献金を行なって身代金を工面し、リチャードは解放された。

解放されたリチャードはイギリスに戻ると王位に就いていた末弟・ジョンから王位を奪い返し、さらにジョンやフィリップ2世の支援で諸侯が起こした反乱を悉く鎮圧した[1]

最期[編集]

もともと、フランスのフィリップ2世とは父王の代から大陸政策をめぐって争っており、父王から王位を奪ったり十字軍遠征などの利害が一致している間は協調していた両者も、大陸政策を推し進めるリチャードとイギリスをフランスから追い出そうと目論むフィリップ2世の間では利害が真っ向から対立しており、対立は避けられるはずがなかった[1]。またリチャードがフィリップ2世の妹との婚約を破棄したこともあり、両者の仲は一層険悪を増した[1]

リチャードはフランスと戦うために大陸への遠征を決意。しかし十字軍遠征や身代金調達でイギリスの財政は火の車であり、リチャードはこれを国璽の改訂を行なうことで借金を無効にするという離れ業を行なった。そして留守中の国政を自らの解放に奔走した重臣・ヒューバート・ウォルターに一任すると自らはフランスへの遠征を開始。フィリップ2世率いるフランス軍をノルマンディーなど各地で破って獅子心王の実力を見せつけた。

1199年、アキテーヌでフランス、及び反乱軍と戦闘する。この戦闘は決して大規模なものではなかったにも関わらず、リモージュの攻城戦において流れ矢を受け、その矢傷が原因で没した[1]。享年43(満41)。

子が無かったリチャードは生前、甥のアルテュール1世(アーサー)を後継者に考えていたが、アーサーがフランスに接近したため考えを改め、末弟のジョンを後継者に指名したという。

人物像[編集]

  • リチャードの10年の治世において、彼がイギリスに滞在したのは何と半年間であり、つまり9年半も戦陣にいたことになる。しかもその間に相次ぐ軍費と自らの身代金調達のために重税や献金が相次いで国民の不満は増大し[1]、この財政難のツケは次代のジョンの時代に爆発することになる。獅子心王として優秀な軍事能力を持ち、イスラム勢力に伝説化するまでに語られたリチャードも政治家としての事績は皆無であった。しかしヒューバート・ウォルターを登用して国政を任せるなど人物を観る目は確かだったようであり、そのためか政治家としての事績はマイナスイメージが強いのに同時代からの悪い評価はほとんど無い。獅子心王として中世騎士の代表のように[1]戦闘に身を費やしたリチャードはイギリスでは好意的に高く評価されている国王である。
  • リチャードには戦闘における逸話が非常に多い。
    • リチャードに矢を放った敵兵はピエールという者だった。周囲は当然処刑するように求めたが、リチャードは勇士と称えてピエールを許した。だが間もなくリチャードが矢傷が原因で亡くなると、報復としてピエールは皮剥ぎの極刑に処された[2]
    • サラディンと戦闘している時、リチャードは病に倒れた。それを知ったサラディンから見舞の品が贈られてくるに及びサラディンの器の大きさを知り、和睦を決意したという。

脚注[編集]

  1. a b c d e f g h i j k l m 水村『世界史のための人名辞典』P367
  2. 小和田『世界帝王事典』P344

参考文献[編集]