マリア・ルース号事件
マリア・ルース号事件(マリア・ルースごうじけん)とは、明治5年(1872年)旧暦6月に発生した国際裁判事件である。近代日本にとっては初の国際裁判であったが勝利したことで知られている。なお、事件に関してはマリア・ルズ号事件、マリア・ルーズ号事件など様々な呼び名がある。なお、日付は日本時間のものであるが、日本では明治5年(1872年)旧暦12月3日をもって太陽暦(グリゴレオ暦)に改暦されて明治6年(1873年)1月1日となっているため、明治5年までの日付は旧暦、明治6年以降は新暦となる。
概要[編集]
明治5年(1872年)の旧暦6月4日、マカオから南米のペルーに向かっていたマリア・ルース号は嵐に遭遇し、そのため船の修理のために横浜港に寄港することになった。ところが、同船から清国人のクーリー(苦力)が2人逃亡し、うち1人が近くに停泊していたイギリス軍艦に救助を求めたことから事件が始まる。
クーリーとは苦力とも書かれるが、わかりやすく言うなら当時の清(中国)やインドにおける最下層の労働者のことで、当時の呼称であった。このクーリーがイギリス船で「マリア・ルース号の船内に南米での労働で従事するために清国人クーリー230名が監禁されていること、船内で残酷な清国人虐待が行なわれていること」などを証言して救助を求めた。
旧暦6月7日、イギリスの代理公使・ワトソンは日本政府に対してペルー船における非人道的な扱いを取り調べるように当時の外務卿・副島種臣に申し入れる。これに対して明治政府の首脳部、特に司法卿の江藤新平や神奈川県令の陸奥宗光らは、ペルーが日本との条約未締結国であることなどを理由に外交問題に発展することを恐れて反対する。しかし、副島は日本に法権があると主張して太政大臣・三条実美の裁定を得て、事件処理の全権を委任され、外務省管下の裁判とする事を決定。土佐藩出身の大江卓を神奈川県令(後に権令)に任命して特命裁判長とし、マリア・ルース号事件の調査に当たらせた。
旧暦7月1日、副島は大江にマリア・ルース号に乗船していたクーリーの取り調べを命じ、大江が同船内の確認作業を進めると証言通り、監禁状態にある清国人のクーリー230名が発見される。
旧暦7月4日、事件の第1回裁判が開始され、大江は神奈川県庁内に特別法廷を開いた。ペルー側のマリア・ルース号船長のへレイラ、清国人のクーリーへの尋問が行なわれた。この過程でマリア・ルース号は横浜からの出航を停止され、マカオを事実上の法権下に置いていたポルトガルは日本に対して抗議するなどした。また、欧米諸国は近代を迎える日本が初めてとなる国際裁判でどのような態度をとるかに注目していた。
旧暦7月27日、へレイラ船長に清国人クーリー虐待の罪により、杖100に当たるとする有罪判決が下され、さらに清国人クーリーがマリア・ルース号に戻るか否かは彼ら自身に決定させるという判決が下された。ただしへレイラに対する罰などは情状酌量があるとして免除(事実上の無罪)されている。
旧暦8月1日、この判決に納得のいかないへレイラは、清国人クーリー全員に対してマカオで交わした契約履行請求の訴訟を起こした。このため旧暦8月16日、再審理が開始される。
旧暦8月25日、第2回裁判が始められ、マカオでの清国人クーリーの契約は全て無効であること、船を残して上海に逃亡したへレイラに連れ去られた1名を除く229名の解放が決定された。この判決に対して当時の清政府は日本政府、特に副島と大江に対して謝意を示し、2人に対して大旗を贈呈した。これに対してペルーは判決を不服として抗議した。旧暦9月1日にへレイラは上告せず、マリア・ルース号の放棄を決めた。旧暦9月13日、マリア・ルース号事件における清国人クーリー229名が清国特使に引き渡され、事件は決着したかに見えた。
ところが明治6年(1873年)新暦2月27日、ペルー政府から派遣された外交使節団のガルシア海軍大佐(公使)が来日したことから、この事件が再燃してしまう。3月31日、ガルシアは事件に対する損害賠償を日本政府に求めた。6月25日、外務卿代理の上野景範は当時のロシア帝国皇帝・アレクサンドル2世にこの事件に関する仲裁裁判を依頼する。これに対してアレクサンドル2世は7月18日、事件に関して日本とペルー両国から正式な依頼があれば仲裁を承諾すると通達した。
一方、これまで日本とペルーには何ら法的な条約が締結されていなかったことから、8月21日に日本はペルーとの間に日本・ペルー和親貿易航海条約(友好通商航海条約)を結び、即日施行した。これにより領事関係なども成立し、ペルーは日本がラテンアメリカ諸国の中で最初に条約を締結した国家となった(ただし批准書の交換は明治8年(1875年)5月17日である)。
明治7年(1874年)3月23日、日本がペルーとの仲裁裁判を依頼したロシアのサンクトペテルブルクに、代理公使に任命された花房義質が着任する。4月6日、ロシアにおいて仲裁裁判が開始される。6月10日、ロシア特命全権公使の榎本武揚が仲裁裁判における日本側の代表としてサンクトペテルブルクに到着する。
この仲裁裁判の争点はペルー側が日本の出した判決が不服で、謝罪と賠償を求めるというものであったが、明治8年(1875年)5月29日、仲裁裁判において日本側にマリア・ルース号事件における賠償責任は無い旨の判決が下され、こうして裁判は最終的に日本の勝利で決着した。なお、ロシア側が日本に有利な判決を下したのは、5月7日に日露の間で樺太・千島交換条約が締結されており、その政治的理由から出されたのでは無いかと見られてもいる。
意義[編集]
初めての国際裁判であるだけに、日本がどのように出るかが注目されていたが、欧米と互角に渡り合ったことで逆に日本の評価が高まることになった。ただ、このペルーとの裁判の過程でペルー側から「日本国内でも芸娼妓が人身売買されているではないか」と痛い所を突かれたりもしている。このため明治政府は芸娼妓解放令を布告せざるを得なくなった。また、日本において初めて人権が注目された事件としても重要である。
この事件を取り上げた作品[編集]
文学[編集]
- 『僑人の檻』早乙女貢著、講談社
- 『奴隷船-解放運動の先駆者大江卓-』小川正著、恒文社
- 『開港ゲーム』三宅孝太郎著、小学館、ISBN 978-4-09-410010-5
- 『マリア・ルス事件 大江卓と奴隷解放』武田八洲満著、有隣新書、ISBN 978-4896600421
- 『るろうに剣心 -明治剣客浪漫譚-』(少年漫画) 登場人物の駒形由美の回想録でこの事件について触れられている
舞台・映画[編集]
- 『奴隷船』1943年、大映
- 『KAIHORO!會芳樓』横浜夢座、プロデューサー:五大路子
- 『弁天通りの人々』監督:市川徹
- 横浜開港150周年記念 『マリア・ルス号事件』2009年、「マリア・ルス号事件製作委員会」、プロデューサー:平沼成基
- 横濱夢語りVOL.25横浜開港150周年記念&横浜市制定100周年記念 明治5年マリア・ルス号事件 ~日本初の国際裁判 230人の清国人を救った男[1]