カスピ海
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カスピ海(カスピかい)は、ユーラシア大陸中央部にある湖であり、面積は日本とほぼ同じで、湖としては世界最大である。カスピ海を境に東側がアジア、西側がヨーロッパに分類される場合が多い。その形状は日本の能登半島にも似ており、ロシア連邦、アゼルバイジャン共和国、イラン、トルクメニスタン、カザフスタン共和国の5か国に接して囲まれている。接している国の数でもカスピ海は世界最多である。このようにカスピ海は広大である上に、その水には塩分が多く含まれているので、外洋と直接接続しているわけではない(黒海・カスピ海運河などを介して間接的には接続されている)が湖ではなく海として扱われる場合もある。また、沿岸の地域は広い範囲で標高が0m未満となっている。
地理[編集]
沿岸の国[編集]
流入する川[編集]
歴史[編集]
- 1世紀 - 東岸は北インドのクシャーナ朝、南岸はイランのパルティアの支配下にあり、ローマ帝国もアゼルバイジャン南部あたりまで進出していたが、西へ後退。
- 2世紀 - 引き続き、クシャーナ朝とパルティアが東岸・南岸を支配。
- 3世紀 - パルティアに代わってイランを支配したササン朝が、カスピ海南岸・東岸を支配。クシャーナ朝はカスピ海沿岸を失った。
- 4世紀 - 引き続き、ササン朝が東岸・南岸を支配していた.
- 5世紀 - 南岸は引き続きササン朝領だったが、東に中央アジアのエフタルが進出。北にフン族が進出したが、短期間で去っていった。
- 6世紀 - 引き続き、ササン朝とエフタルが南岸・東岸を支配していたが、エフタルは滅ぼされた。
- 7世紀 - 南岸は引き続きササン朝領だったが、西岸にイスラム勢力が進出し、ササン朝を滅ぼしてカスピ海の南半分を制圧した。北岸ではハザールが建国される。
- 8世紀 - 引き続き、イスラム勢力のウマイヤ朝が南側を、ハザールが北側を支配。ウマイヤ朝はアッバース朝に交代する。
- 9世紀 - 引き続き、アッバース朝が南側を、ハザールが北側を支配。
- 10世紀 - アッバース朝が衰退し、カスピ海の東はウズベキスタンのサーマーン朝、南はイランのバーワンド朝、西は南イランのブワイフ朝の支配下となった。その後、サーマーン朝とハザールが滅ぶ。
- 11世紀 - イラン東部にセルジューク朝が建国され、バーワンド朝を属国化し、カスピ海の東岸・南岸の支配者となった。西岸は引き続きブワイフ朝だが、セルジューク朝に滅ぼされた。また東岸では、セルジューク朝からホラズム朝が独立した。
- 12世紀 - カスピ海西岸ではシルヴァン、アゼルバイジャンといった国が台頭。カスピ海南岸・東岸は引き続きセルジューク朝、ホラズム朝が支配した。
- 13世紀 - カスピ海周辺全てをモンゴル帝国が制圧。その後、西のジョチ・ウルス、東のオルダ・ウルス、南のイル・ハンに分裂。
- 14世紀 - 南のイルハン領が、いくつかの国に分裂したが、ウズベキスタンのティムールが統一した。北は引き続きジョチ・ウルスとオルダ・ウルス領であったが、ジョチ・ウルスが統一した。
- 15世紀 - 西岸にイラン西部の黒羊朝が、東北部にウズベキスタンから起こったシャイバーニー朝が進出。その後、シャイバーニー朝からカザフ・ハンが独立してカスピ海北東部を支配。
- 16世紀 - 西岸・南岸をサファヴィー朝が統一。北岸では、アストラハン・ハンがジョチ・ウルスから独立。ジョチ・ウルスを引き継いだノガイ・オルダと、カザフ・ハンが引き続き支配していた。その後、アストラハンはロシア支配下になる。
- 17世紀 - ノガイ・オルダもロシアの支配下になり、北西部をロシア、北東部をカザフ、南部をイランが支配という形になった。
- 18世紀 - ロシアが東に拡大、カザフ・ハンはカスピ海沿岸を失った。南部ではサファヴィー朝が滅亡、分裂。後にガージャール朝が統一した。
- 19世紀 - 引き続き、ロシアとイランの支配下となる。
- 20世紀 - 引き続き、ソ連とイランの支配下であるが、ソ連崩壊でカザフスタン、トルクメニスタン、アゼルバイジャンが独立。