龍年光

出典: 謎の百科事典もどき『エンペディア(Enpedia)』
ナビゲーションに移動 検索に移動

龍年光(りゅう としみつ、1921年〈大正10年〉10月10日 - 2007年〈平成19年〉3月25日)は日本政治家宗教家。通称「りゅう ねんこう」ともいう。

経歴[編集]

  • 1921年(大正10年)10月10日に東京府荏原郡(現在の東京都品川区)で生まれた。
  • 1947年(昭和22年)8月14日に池田大作(のちに第三代会長)が初めて出席した創価学会の「支部座談会」に出席していた。

1951年(昭和26年)7月に創価学会の「男子部」が結成されると、男子部の第4部隊長に就任した。この時、池田大作(のちに第3代会長)は男子部の第4部隊の幹事長だったが、後に第1部隊長として転任した。

  • 1955年(昭和30年)4月に創価学会の「文化部」が結成された。統一地方選挙の1つとして行われた東京都の品川区議会議員選挙に無所属(創価学会の推薦候補)で立候補し、初当選し、品川区議会議員となる。創価学会の推薦候補で東京都の23区内の区議会に当選した32人のうちの1人だった。
  • 1959年(昭和34年)4月に統一地方選挙の1つとして行われた東京都議会議員選挙で、品川区の選挙区から無所属(創価学会推薦)で立候補し初当選し東京都議会議員となる。以後、7回連続当選した。
  • 1959年(昭和34年)6月30日に創価学会の「理事」に就任した。
  • 1963年(昭和38年)4月に東京都議会議員選挙で「公明政治連盟」の公認候補として、2回目の当選を果たした。
  • 1964年(昭和39年)11月17日に公明党が結成されて、副書記長、都議会公明党の議員団長に就任した。
  • 1967年(昭和42年)2月 都議会から衆議院議員になった竹入義勝(公明党委員長)に請われて、公明党の中央統制委員会の副委員長に就任した。
  • 1972年(昭和47年)9月に東京都議会副議長を同じ公明党の小泉隆に譲り退任した。
  • 1973年(昭和48年)7月に東京都議会議員選挙で5回目の当選した。
  • 1977年(昭和52年)7月 第9回東京都議会議員選挙で6回目の当選した。
  • 1981年(昭和56年)7月 第10回東京都議会議員選挙で7回目の当選した。
  • 1984年(昭和59年)公明党の中央統制委員会の副委員長を退任した。
  • 1985年(昭和60年)7月に東京都議会議員選挙に立候補せず、政界を引退した。

創価学会に批判的な立場となり、創価学会を脱会した[編集]

エピソード[編集]

  • 自由民主党の「公明党・創価学会の政教分離に関する部会」に山崎正友(創価学会の元顧問弁護士)と共に出席した。
  • 1995年9月に転落死をした東村山市議会議員の朝木明代(当時、東村山市議会議員)の追悼集会に出席し、スピーチを述べたこともある。
  • 龍年光と同様に、創価学会に批判的な立場となった東京都議会公明党幹事長を務めた藤原行正(公明党の元東京都議会議員)とはもともと相性かったとされ、龍年光が藤原行正(公明党の元東京都議会議員)と創価学会への批判活動で行動を共にすることはなかった。