黒田長興

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黒田 長興(くろだ ながおき、慶長15年3月15日1610年5月8日) - 寛文5年3月20日1665年5月5日))は、江戸時代前期の外様大名筑前国秋月藩5万石の初代藩主

生涯[編集]

秋月藩主となる[編集]

黒田孝高の孫。父は筑前国福岡藩の初代藩主・黒田長政で3男。母は保科正直の娘・栄姫大涼院)。福岡城で生まれる。

元和9年(1623年)に父・長政が死去する際の遺言により、筑前国夜須郡下座郡嘉麻郡など3郡の内、5万石を与えられ、夜須郡秋月に居所を定めて秋月藩を立藩した。

兄との対立[編集]

黒田宗家、すなわち福岡藩第2代藩主の座は長興の長兄である黒田忠之が継承した。しかし、忠之は生来から暗愚で、それに比較して長興は出来が良かったことから長政は将来を心配し、忠之を廃嫡して長興を後継者にしようと考えたことがある。結局、家臣団の反対もあって長政は忠之の廃嫡を断念してそのまま後継者としたが、この経緯から忠之と長興、並びにその家臣団は対立を繰り返すようになった。

寛永2年(1625年)、長興は第3代征夷大将軍徳川家光に拝謁するために江戸へ登ろうとしたが、この際に忠之の意を受けた福岡藩の家老らが長興の東上を阻止しようとしたため、豊前国小倉藩主の細川忠利の助けを得て江戸に登った。寛永3年(1626年)、家光に供奉して京都に上洛し、従五位下甲斐守に叙任する。寛永11年(1634年)に家光から5万石の朱印状を与えられている。

忠之との対立は結局、忠之存命中は和解することができなかった。忠之の死後、その息子の黒田光之が第3代藩主になると、光之との間に和解が成立した。

藩政[編集]

寛永5年(1628年)、立藩以来長興を補佐してきた堀平右衛門が秋月藩から出奔し、寛永13年(1636年)に福岡藩から宮崎藤右衛門が家老として入るが、この際に福岡藩との間で所領の一部を交換し、その交換は幕府に正式に届けられず「御内証替え」と言われた。

寛永15年(1638年)、島原の乱に参加して戦功を挙げた。正保4年(1647年)、ポルトガル船が長崎に来航した際には長崎に赴いて警備に当たった。

藩政では、新八町や白坂越を開削し、野町駅を創設し、領内交通路の整備に尽力。さらに野町村原地蔵の開墾などを行なって藩政の確立に努めた。

寛文5年(1665年)3月20日、江戸芝の藩邸において死去。法名は東陽院五峰宗印。安政6年(1859年)に垂裕明神の神号を与えられ、垂裕神社に祀られた。墓所は東京都渋谷区広尾の祥雲寺

系譜[編集]

外部リンク[編集]