差別

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差別(さべつ)には、大きく分けて二種類ある。
社会的に問題となっているものとしては、具体的には「ある一定の特色を有する比較的少数人間集団に対し、差し引きつまりマイナス価値を作為的に付与し、そのような特色を有しない普通の一般的な比較的多数の人間集団から区別しつつ、視界から排除せずに探せば容易に発見可能な場所に存置して、日常的にその対象集団に対する優越感に浸ることで心の平穏を保つという精神的に病んだ一種妄想的な社会性のある思考形式」をいう。
認知科学の立場からいうと、「差別とは、差別感情の発露」であり、「問題解決のソフトウェアとしての『感情』システムの不具合」[1]とされる。
もう一つは、ある文化圏におけるタブー(禁忌)が意識化されていない場合における不快感情(その対象は人物に限らない)をいう。たとえば巻貝のうち海棲のサザエや陸棲のエスカルゴは高級食材とされるが、殻のないウミウシ(アメフラシを含む)や蛞蝓は食材としてはあまり一般的ではない。これを「『殻のあるなし』による差別」とするかどうかは議論があるが、寿司職人が女性か男性か、あるいは日本人か黒人かといった話になると「性差別」「人種差別」として浮き上がってくる。そこを意識化して納得し、「寿司なんて、男が握ろうが女が握ろうが、日本人が握ろうが黒人が握ろうが、人間が握ろうがロボットが握ろうが、美味くて食品衛生上安全なら許容できる」と達観できるかどうかによって人間性が問われていると考えることもできる。すなわち、「当人の人間性(所属する文化・社会を含む)に対する問いかけ」と考えれば、差別は(不快かもしれないが)必ずしも悪ではない。

概要[編集]

「基本的には、人間の自己防衛本能に起因する」という意見もある。また、ニワトリなど、本来縄張りを持っている某物を、人工的に閉鎖的な環境に閉じこめたために「つつきの順序」が成立したという説もある。
とはいえ、メソポタミア文明(ティグリス=ユーフラテス文明)やエジプト文明(ナイル文明)のような都市文明においては、「移民の流入」「社会的な役割」といった要素が重要だったため、差別とかをしている暇はなかった。

発生原因[編集]

野生動物には差別といえるものはない。家畜として閉鎖環境に置かれたことによって、ニワトリなどに「つつきの順序」が生まれた。
野生動物淘汰圧を受けているため、「種の保存本能および自己防衛本能」と、「テリトリー(縄張り)の防衛本能」というふたつの本能がある。よってミツバチの働き蜂などは、巣を護るためには死ぬまで戦うが、個体として自由行動しているときは同じ種であってもさっさと逃げる。数学者の森毅は「逃げるときはバラバラに逃げるというのが、京都人の生活の知恵です」と述べている。
やがて都市文明が発達し技術により淘汰圧が軽減されると、「都市文化」という閉鎖的な文化のなかで「社会の中で、より高位の立場に立ちたい」という欲求・願望を有するに至った。
とはいえ文化の中では、「階層」と「職分」という二つの軸があり、飢饉・災害・疫病などに備えるためや治水・灌漑などに備えるため、どうしても資源の集約ということが行われざるをえなかった。
ところが、いわゆる経済社会においては金銭欲物質欲として願望され、「それらを十分に満足する者は親から財産を受け継いだものや特別の才能に恵まれた少数にとどまり、大多数の一般人はそれらを十分に満たすことができない」という嫉妬の感情に結びつくようになった。そこで、「よりましに、より優越な精神的状態にありたい」という願望をかなえるため、差別という妄想的な思考を思い立った。
中には、日常生活を進めるにあたり両手両足を完全に動かすことのできるいわゆる五体満足か、それとも体のどこかに欠陥があって完全に動かせないいわゆる五体不満足かという区別であった。そして後者は比較的少数であったため大多数の者からまずは生活進行に支障をきたすとして物理的に排除され、次に人格的にもマイナスの存在として貶められ侮蔑されるべき存在として非難の的になったりもした。やがて大多数の五体満足者は自分たちは五体不満足に比較すればよりましであるという精神的な優越感に浸り、それによって生活の不安から一時的にではあるが解放されることを快楽とするに至った。
これが、日常的習慣的な差別思考の始まりであるとする説もある。

増幅と激化[編集]

富の保有の不平等から社会には、支配者被支配者の区別が生じ国家が生まれた。しかし支配者は少数であるのが通常だったので、大多数を占める被支配者に対する統治は困難を極めた。支配者が恣意的な統治をおこなえば各地で抵抗や反乱が勃発し高じれば革命が発生して支配体制自体が瓦解することも頻繁に起こった。

大多数に対する統治の手段として、支配者は分割統治あるいは分断統治の手法を採るに至る。例えば国民を職業別に区分し、ある職業には優遇措置を与え他の職業に対しては冷遇するなどして利益の分配に差異を設け巧みに支配した。やがて支配側は国民を精神的にも支配する手法を思い立った。国民の間に自然発生的に現出していた妄想的な差別思考を利用したのである。具体的には前述した五体不満足な者たちを身分として社会制度化し目に見える形にして差別を増長したうえで、その者たちに保護を与え優遇する政策を採ることにより五体満足な大多数の国民に不公平感を与えさらに差別を増幅させるという悪質な手法であった。そして国家はこれ以外にも、さまざまな事象を利用しありとあらゆる差別を生み出していく。

差別事象の特徴[編集]

この特徴を有するがゆえに差別問題は複雑化し、問題の解決を困難にしている。国家が増幅・助長させたならばそのような政策を中止すればよいのだが、数千年に及ぶかかる政策の結果として差別はもはや国民の精神に深く根を下ろし社会制度化ないし慣習化してしまっている。恐らくではあるが、差別問題は半永久的に解決困難であろう。

まず、対象集団に対するマイナスの価値の付与が当初恣意的な作為によってなされたという事実への認識が、失われていることが挙げられる。この結果、例えば「○○には生産性がない」とか「○○は死を望んでいる」などの誤った認識が普及し、差別対象イコールマイナス価値であるという短絡的なステレオタイプ思考(俗にいうレッテル貼り)を生み出し、それがさらに差別を助長促進するという悪循環に陥っている。

次に、そのようにして大多数一般社会集団から区別しておきながら、その存在を視界から完全に消し去らないことが挙げられる。例えば、21世紀日本の在日外国人に対するヘイトスピーチで多く叫ばれている内容に「○○は帰れ」というのがある。差別が激しくなると差別対象に対する憎悪が激化し、その徹底的な排除に向かうのは自然の流れであろう。ところが日本政府は、在日外国人に帰国を促すことはしない。さらにここで問題になっている在日外国人には帰るべき先がないのが実情で、やむを得ず日本での在住を余儀なくされている。このような現実に対し、さらにヘイトスピーチが激化し差別が深まる。こういった状況は部落差別など他の差別事象においても似たようなものであり、要するに視界から消えないように社会の無意識として存置させていることが看取される。もし在日外国人全員が故国に帰ればどうなるか。その外国人の問題は解決するであろうが、精神的に病んでいる日本社会は新たに別の差別対象を妄想的に作出し矛先をそれに向けることであろう。

そして最大の特徴は、差別対象集団をマイナス価値に貶めるのみで大多数一般社会に何ら生産的・建設的な発展がみられないことである。すなわち、他人を蹴落とすことにより相対的に自らの地位を向上させるという自己中心的な思考である。社会全体にとっては差別事象の発生は総じてマイナスであるが、大多数集団はこれに気づかず自ら同じレベルをぐるぐる回り続ける無限ループに陥っているのである。差別をすればするほど、人間社会はさらに病んでいき精神の荒廃、腐敗の一途をたどるのである。学校でのいじめ事象でいういわゆる小学一年生デビューは、このような精神的に病んだ妄想的な価値観を如実に示している。

日本社会における差別問題[編集]

日本国内では、「『士農工商』(商<工<農<士)という絶対的な階層社会があった』と戦後教育において教えられてきた。これに対して、「役職による縦割分担であり縦割りの職能分担ではないか」という説がある[2]
具体的な根拠については、各読者が参照されたい。ここでは概略的に記述するにとどめる。
部落差別は、職業差別の一種である。屠殺業・解体業などを行う地域の住民に対する忌避感から生まれたものである。
近代では、近隣他国への植民地支配政策に要因を有するといわれる、在日外国人差別がある。
また、江戸時代以降の固定した鎖国的な儒教社会に要因を持つ女性差別性的マイノリティーに対する差別や、前述した五体不満足な人間に対する生活本能的な心身の不自由なものに対する差別があり自閉や「アスペ」なども蔑称として用いられる。その他にも、趣味としているものが比較的少数で偶然そのうちの何人かが猟奇的な犯罪を犯したことに起因するアニメオタク差別などもある。
要するに、日本社会にはフラストレーション(鬱憤)を溜めている人々がおり、その捌口としての「差別のターゲット」を求めているのが根本原因である。

差別・被差別不安[編集]

在日米兵などにはありがちだが、「ひょっとしたら、我々は差別されているのではないだろうか?」という不安感もある。
具体例としては、「自衛官が、我々のことを『アメちゃん』と陰て呼んでいるのは、差別感情によるものなのか?」と真顔で相談されたことがある。「それは『アメリカン』の俗称でしかない。『イタリアン』は『イタ公』で『ドイッチュラント』は『ドイツ野郎』で『ルースキー』は『露助』というのは、戦争映画では一般的である。『ジャップ』が差別語とされるのは、米国籍を持っている日系人を『ジャップ』と呼んだことによるものであり、同盟国である日本の国民を『ジャップ』と呼ぶのは間違いだというだけの話である。よって、野球の試合中に相手チームの日本人選手をジャップ呼ばわりするのは、同じチームを応援している日本人・日系人に配慮している限りは一応は OK である」と返答したところ安堵していた。沖縄などでは「反米」を唱える勢力もあるため、在日米兵にとっては確かに不安材料ではあろう。

差別に対する抵抗[編集]

部落解放運動

関連事項[編集]

脚注[編集]

  1. 戸田正直『心をもった機械 ― ソフトウェアとしての「感情」システム』(ダイアモンド社、1987)
  2. 渡辺 尚志『武士に「もの言う」百姓たち ― 裁判でよむ江戸時代』