万沢口の戦い
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万沢口の戦い(まんざわぐちのたたかい)とは、天文4年(1535年)7月から8月にかけて甲斐の武田信虎と駿河の今川氏輝との間で行なわれた合戦である。戦場は現在の山梨県南都留郡南部町である。この合戦の確かな勝敗は無いが、武田軍と今川軍が対峙している間に氏輝の同盟者である相模の北条氏綱軍が甲斐に侵攻して郡内・山中合戦で勝利したため、最終的に武田軍の敗北で終わった。
経歴[編集]
大永6年(1526年)に今川氏親が死去し、若年の嫡子である氏輝が跡を継いだ[1]。このため今川家は生母の寿桂尼が後見し、大永7年(1527年)に今川・武田間で和睦が成立する[1]。しかしこれは若年の氏輝のもとで基盤固めを優先した停戦条約のようなものであり、完全な和睦・同盟では無かった[1]。そのため氏輝が親政を開始した後の天文3年(1534年)には甲斐侵攻が行なわれている[1]。この時には1万の今川軍が甲斐に侵攻し、一戦して帰国した[2]。
そして天文4年(1535年)7月5日、信虎は甲府を出陣して駿河侵攻を図る[2]。7月17日頃に信虎は駿河富士郡鳥波(現在の静岡県芝川町)に侵攻して放火した[2]。今川氏輝はこれに応じて7月27日に駿府を出陣し、今川・武田軍は万沢口で対峙した。両軍は20日ほど対峙したが、今川家の同盟者である北条氏綱の軍勢が小田原城を出陣し、甲斐都留郡に侵攻した[2]。このため8月19日に万沢口で合戦になるが、決着はつかなかった(『為和集』)。
その間に北条軍が甲斐に侵攻し、郡内・山中合戦が行なわれることになる(『勝山記』『快元僧都記』『為和集』)。
脚注[編集]
参考文献[編集]
- 柴辻俊六 編『武田信虎のすべて』(新人物往来社、2007年) ISBN 978-4-404-03423-6