遠藤喜一

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遠藤 喜一(えんどう よしかず、明治24年(1891年8月8日 - 昭和19年(1944年5月3日?)は、日本海軍軍人。最終階級は海軍大将

経歴[編集]

前半生[編集]

東京府出身[1]。父は海軍少将遠藤喜太郎である[1]。明治41年(1908年)に海軍兵学校に入校し、39期で卒業する。大正6年(1917年)に海軍大学校に入校し、さらに海軍砲術学校高等科を卒業した[1]

その後、ドイツ駐在武官、艦政本部、航空本部勤務を経て軽巡「鬼怒」の艦長に就任する[1]。実直な人柄で昭和10年(1935年)からおよそ1年間ほど、侍従武官として昭和天皇に奉仕し、昭和11年(1936年2月26日二・二六事件では海軍武官としてただ一人宮中に駐在して事件収束に対処した[1]。昭和13年(1938年)に再度、駐在武官としてドイツに派遣され、同年12月に日本国内が日独伊三国同盟問題で紛糾すると、ナチス・ドイツより「の場合、帝国が参戦せば米国は少なくとも対日経済封鎖を行なう算大」と打電し、締結に危惧を訴えた[1]。またナチス・ドイツがポーランドに侵攻を開始する2ヶ月ほど前に遠藤は「欧州戦乱は今勃発の算大なり」と日本に向けて打電している[2]

その後、横須賀鎮守府参謀長に就任し、さらに2代目の総力戦研究所所長に着任した[1]。昭和18年(1943年3月、第一遣支艦隊司令長官として揚子江方面の治安確保の任を務める[1]。その後、軍令部出仕を経て、同年の秋には新たに編成された第9艦隊司令長官に就任してアメリカ軍の反撃が熾烈なニューギニア方面の第一線に送られた[1]

玉砕[編集]

遠藤が就任した第9艦隊は敷設艦「白鷹」と駆逐艦「不知火」ほか、若干の掃海艇が付属するのみの陸上部隊であり、陸軍と共同作戦を取ることにはなっていたが、第18軍の兵站部隊が主な任務だったために実質的な戦闘力には乏しく、さらにこの陸軍との合同軍では大規模な空襲をかけてくるアメリカ軍に対抗する術はほとんど無かった、といわれている[2]

昭和19年(1944年)4月、アメリカ軍の激しい空襲のため、司令部はニューギニア北岸のウエワクからホーランジアへ移転する[2]。しかしアメリカ軍爆撃機が来襲し、狙い撃ちにされた結果、第9艦隊と共同作戦をとっていた陸軍第4航空軍、第6飛行師団の航空機130機が破壊されてしまった[2]。そして4月22日、アメリカ軍はホーランジアに上陸し、日本軍と壮烈な戦闘を開始する。しかし事前の空襲などで既に戦力を失っていた第9艦隊にアメリカ軍を食い止める戦力など無かった[2]。遠藤は玉砕を覚悟したとされ、ニューギニアの密林の奥深くに分け入って戦闘を続けたとされるが、その混乱の中で遠藤の戦死を確認することはできていない、とされている[2]。あくまで一説としてニューギニアの山中において自決したとも言われているが、日時などは5月3日のほか、様々な説があり不明である[2]

遠藤が玉砕したとされる期日からおよそ9ヵ月後、海軍大将が追贈・親任された[2]

脚注[編集]

  1. a b c d e f g h i 『日本の軍人100人・男たちの決断』2016年7月。宝島社、36頁
  2. a b c d e f g h 『日本の軍人100人・男たちの決断』2016年7月。宝島社、37頁

参考文献[編集]