言論出版妨害事件
言論出版妨害事件(げんろんしゅっぱんぼうがいじけん)は、1969年(昭和44年)~1970年(昭和45年)頃に、『創価学会をブッた斬る!』という創価学会や公明党に対して批判的な内容の書籍を出版した著者の藤原弘達(明治大学の教授で評論家)に対して言論出版妨害の圧力を加えたとされる事件。
事件の経緯[編集]
1960年代~1970年代の日本の高度経済成長期に、中学校や高校を卒業して農村部(田舎)から大都市(東京や大阪や名古屋など)にある企業に就職して働きに出てきた若者を、創価学会は信者として取り込んで信者数は大幅に増加した。この頃には創価学会は、日本で最大級の宗教団体に成長していた。
1960年代~1970年代には、創価学会は、複数人(3人~4人程度)で相手を取り囲んで「創価学会への入信を迫る強引な宗教勧誘」など常識を逸脱(いつだつ)した布教活動を行っていた。その為に、創価学会は、世間の人達からは「かなり嫌われていた。」
これらの創価学会の反社会的な宗教活動に対して、明治大学の教授で評論家だった藤原弘達は、創価学会に批判的な内容の『創価学会をブッた斬る!』という書籍を出版した。 書籍を出版すると、創価学会側の幹部や弁護士から藤原弘達の元に接触があり、書籍の出版中止するように要請があった。
しかし、藤原弘達が書籍の出版中止を拒否すると創価学会の信者と思われる人達から誹謗中傷を受けた。
これを日本共産党の国会議員や共産党の機関紙『しんぶん赤旗』などが取り上げて、世間の人達にも知られるようになった。
困った、創価学会側は、公明党の竹入義勝(当時、公明党委員長)を通じて、自民党の田中角栄(当時、自民党幹事長、のちに内閣総理大臣になる)に依頼して藤原弘達に田中角栄が直接に電話をして出版中止の要請をした。
1970年(昭和45年)5月に、創価学会の総会で池田大作(当時、創価学会会長)が「言論出版妨害事件」について公式に謝罪して、創価学会と公明党の「政教分離宣言」の方針が発表された。その後、創価学会の幹部と公明党議員との兼任が禁止され、公明党の綱領(規約)から「仏法民主主義」や「王仏冥合」などの宗教用語が削除されて宗教色が薄まった。
事件の影響[編集]
「言論出版妨害事件」の事件後にマイナスイメージが付いて、創価学会の日本国内での布教活動が停滞するようになった。1975年(昭和50年)1月に創価学会の海外組織として創価学会インタナショナル(SGI)が結成されて創価学会の布教活動の中心は、日本国内から海外での布教活動に変わっていった。
また「強引な布教活動」は改善が図られるようになり、創価学会の宗教活動は「平和活動」、「教育活動」、「文化活動」に力を入れるように変わっていった。 ただし、選挙の時期が近づくと、創価学会の信者から友達や知り合いの人や学校時代の同級生に対して、公明党への投票依頼が来るケースもあるという批判的な意見もある。