教育
教育(きょういく)とは、国策のひとつ。
概要[編集]
教育基本法の第一条によれば「教育は、人格の完成を目指し、平和で民主的な国家及び社会の形成者として必要な資質を備えた心身ともに健康な国民の育成を期して行われなければならない。」とあり、正直に言うと「バカが多いと『平和で民主的な国家及び社会』の機能が立ち行かなくなるので『国家及び社会の形成者として必要な資質を備えた心身ともに健康な国民の育成を期して行う』行為全般」が「教育」である。
日本は議会制民主主義を採用しているので、
- 少数意見の尊重
- 多数決の原理
が重要とされており、「意見交換による問題解決能力」をもち、その結論が広く共有されるような「合意形成能力」が求められる。そのための「国家及び社会の形成者」(国民あるいは有権者と社会人)を育成しようという話である。ここでもうひとつ考慮しないといけないのが「三権分立の原則」であって、「立法(議会)」と「行政(お役所)」と「司法(裁判所)」は相互に監視しあわなければならないので、この三者が「なあなあの関係」にならないゆえに、「それぞれの立場を重んじつつ、馴れ合いはしない」という態度や姿勢までも含めて教育というものが存在しているということになる。
教師というのは原則的には公務員であって、高校卒業までの指導は「公務」なのだが、その公務の執行がズルズルであると非常に困る。要するに教育機関というのは「お役所の出先機関」みたいなものだが教師の質が低いという問題がある。つまりこれは教育行政の問題なのだが、現場の教師が文部科学省の意向にちゃんと応えてくれないので問題になっているのが現状である。
公教育機関[編集]
五千年前のメソポタミア地方(シュメール文化)にはすでに公教育機関があった。ただし、その頃は選挙もなかったので、実質的には行政官の訓練所であった。具体的には行政文書の読み書きと、耕作地の割当て(測量も含む)と労働力の配分、収穫物の再配分などの仕事があって、「よみ・かき・そろばん」が教えられた[1]。
当時のメソポタミアは多民族国家であり、楔形文字という共通の文字はあったしアッカド語という共通語に近いものもあったのだが、行政文書となると訛ってちゃ困るので「こんなんアッカド語じゃねーよ」と先生にひっぱたかれたりしていた。行政官は頭脳労働者であると同時に肉体労働者でもあって、雨期が開けると泥の海になった土地を測量しなおして「あんたの畑はここ」「牛が通る道はそこ」だとか農耕用の牛とか種籾の貸付とかあれこれやって、灌漑とか治水の工事もしたらしい。そして収穫が終わるとこんどは税収とかの話になり、「あそこの土手の修理が」とか「あっちからこっちに水路を掘って水を引いて」とかやっていたらしい。まるで伊能忠敬とか二宮尊徳とかのような話である。
そうやって都市が栄えてくると近隣から人が流入してくるし交易も盛んになり、寺子屋的な予備校っちゅーか学習塾っちゅーか、そういうものも盛んになったらしい。
そんなわけで、「教育」というものは「実学」を身につけるためのものであったのだが、「受験対策」のような「社会に出たら、なんの役にも立たん」ことを教えて「言われたことをただ実行する人間を作ること」を教育と思われても困る。テクノロジーは進歩したが、高度な武器には高度な運用が必要なわけで、教育というのは国家プロジェクトの一環なのである。
脚注[編集]
- ↑ ちなみに当時の「学園もの」が現代にも伝えられている。