臼井藩

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臼井藩(うすいはん)は、江戸時代前期のわずかな期間だけ下総国に存在したである。藩主家は譜代大名酒井氏。藩庁は臼井城。現在の千葉県佐倉市に存在した。

概要[編集]

永禄年間以降、臼井の地は千葉氏の家臣の原氏が支配していたが、原氏は天正18年(1590年)の小田原征伐で千葉氏と共に滅亡した。

その後、徳川家康関東に入ると、臼井には徳川四天王酒井忠次嫡男である酒井家次に3万石で与えられた。これが臼井藩の立藩である。他の徳川四天王と比較してこれは半分以下の所領であり、隠居していた忠次が家康に抗議すると「お前でも我が子が可愛いか」と言い返されたという逸話がある[1]

慶長9年(1604年)、家次は家康の命令で上野国高崎藩移封され、臼井藩は廃藩となり、この際に臼井城も破却された。

歴代藩主[編集]

酒井家

譜代。3万石。

  1. 家次(いえつぐ)

脚注[編集]

  1. 天正7年(1579年)に織田信長の命令で自害させられた松平信康の一件を皮肉ったとされるが、この話は疑問視されている。