笠原政晴
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笠原 政晴(かさはら まさはる、? - 天正18年6月17日[1](1590年7月18日))は、戦国時代から安土桃山時代の武将。北条家の家臣であるが、一時期武田家の家臣だった時期もある。北条家の宿老・松田憲秀の長男[1]。仮名は新六郎[1]。北条家の駿河先方衆で徳倉城主[1]。
生涯[編集]
天正3年(1575年)3月に北条家年寄の伊豆郡代である笠原氏の名代(陣代)を務め、その後に家督を継ぐ[1]。これは笠原綱信の孫の笠原千松が早世したため、政晴が家督を継承したと見られている。
天正7年(1579年)から武田勝頼との抗争にあたり徳倉城代を務めるが、天正9年(1581年)11月に勝頼に従属した[2]。天正10年(1582年)2月に織田信長の武田征伐に呼応した北条軍により徳倉城は攻略され、政晴は北条家に帰参する[2]。天正18年(1590年)の豊臣秀吉の小田原征伐で小田原城が包囲される中、政晴は秀吉に内通するが露見し、北条氏直により誅殺された[2]。法名は香義宗固禅定門[2]。