神流川古戦場跡

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神流川古戦場跡(かんながわこせんじょうあと)とは、現在の埼玉県児玉郡上里町大字勅使河原に存在する古戦場跡である。

概要[編集]

天正10年(1582年3月武田征伐武田勝頼自殺して甲斐武田氏が滅亡すると、織田信長は重臣の滝川一益関東管領に任命して上野国国主に任命した。ところが同年6月2日、織田信長とその嫡子・織田信忠京都において重臣・明智光秀の裏切りにあって自害する(本能寺の変)。信長・信忠父子の死去を知った滝川は直ちに主君の敵討ちのために西上しようとしたが、武田氏を滅ぼしてからわずか3ヶ月しかたっていなかったがために軍の組織や支配体制が脆弱で、武田氏の旧臣などにも不穏な動きがあったために直ちに行動を起こせなかった。そればかりか、信長存命中は織田氏と親密な関係を保っていた相模国北条氏直が不穏な動きを見せ始めたので、滝川は6月16日から19日にかけて北条軍と戦禍を交えることになった。

しかし、兵力では北条軍が勝り、また信長の死去で動揺もあったので滝川軍は大敗を喫して上野国を放棄して遁走。これにより北条氏直・徳川家康上杉景勝らは無主の地となった旧武田領をめぐって熾烈な争いを始めるようになる(天正壬午の乱)。

この神流川の戦い関東における戦国史において大規模な野戦として知られており、戦場は現在の神流川にかかる国道18号線の神流川橋一帯と見られている。昭和40年(1965年に「神流川古戦場跡」の碑が建立され、この合戦の経過を綴った碑文が彫られている。また付近には北条軍が首実検をしたという「実検塚」やこの合戦の戦死者を葬った「胴塚」などもある。

アクセス[編集]