相良城

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相良城(さがらじょう)とは、現在の静岡県牧之原市相良に存在した日本である。江戸幕府老中田沼意次居城としたことで知られている。

概要[編集]

この城は江戸幕府の第10代征夷大将軍徳川家治の下で老中となり、権勢を欲しいままにした田沼意次が居城としたことで知られている。田沼意次は「田沼様には及びもしないが、せめてなりたや公方様」と言われるほど権勢を欲しいままにし、田沼時代と呼ばれる一時代を現出した。田沼意次には所領として遠江国相良藩5万7000石が与えられ、築城に当たっては諸大名が寄進して前後7年かかって安永7年(1779年)に完成させた。城の規模はかなり壮大だったようで、特に海から城を眺めるとまるで竜宮城のように華やかだったという。

しかし、田沼意次の権勢は松平定信など反田沼派からの恨みを買い、また賄賂政治が横行して幕政が腐敗し、さらに同時期に天明の飢饉が発生してしまうなどの不幸もあり、次第に田沼政治に不満があふれてゆくようになる。天明4年(1784年)には意次の嫡男で若年寄の地位にあった田沼意知江戸城内で暗殺されると一気に意次の権勢は低下し、さらにその2年後に後ろ盾であった家治も死去すると、松平定信ら反田沼派が一気に台頭して意次は老中を罷免され、さらに所領も大幅に削減された上で、孫の田沼意明が家督を継承するように強制的に隠居までさせられ、そして相良城も松平定信の命令によって1万5000人の人員をもって1か月のうちに跡形もなく取り壊してしまったと言われている。ここに相良城は10年足らずでその姿を消し、意次は失意のうちに間もなく死去したという。

現在は町役場のあるところがかつて相良城の本丸、天守閣があったと伝わっている。また小学校が2の丸、高校が3の丸の跡地であると言われている。なお、この城を築城するにあたって協力した仙台藩伊達氏が、海路を使って運んできた萩間川岸に築いた仙台河岸の石垣がわずかに相良城の名残を現在に伝えている。

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