松本礼二

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松本 礼二 (まつもと れいじ、1929年昭和4年)6月15日 - 1986年(昭和61年)12月26日)は、新左翼活動家。本名は高橋良彦(たかはし よしひこ)。愛称は「よっちゃん」。第2次ブント(共産主義者同盟)の初代議長を務めた。

経歴[編集]

現在の東京都港区出身。1946年逓信省(のち日本電信電話公社)に入省。1952年日本共産党に入党し[1]、港地区委員会に所属するが[2]、1960年安保闘争で共産党の方針に反対して脱党(除名)、共産主義者同盟(第1次ブント)に参加[1][3]。1962年全電通において「電通労研」を結成[4]。1965年6月の共産主義者同盟統一委員会結成大会で議長に選出。1966年9月のブント再建第6回大会(第2次ブント結成)で議長に選出。佐野茂樹と共にブントのまとめ役として活動した[5]。1967年2月2日、明大闘争で大学当局とのストライキ集結の協定締結に関与し、ブントの分裂を招く[2]。同年の羽田闘争を主導[1]。1968年2月のブント第7回大会で議長を退任し、中央委員・国際部長に選出[4]。1969年8月のブント第9回大会で副議長に選出[4]。1970年6月のブントの七中委で情況派幹部として除名され、共産主義者同盟再建準備委員会(情況派)を結成[6]。同年全都労働組合活動家会議(都労活)を結成[4]。1974年に情況派の分裂で「遠方から」編集委員会(松本礼二事務所)を結成し、雑誌『遠方から』で独自の文筆活動を行った[7][5][8]。1978年の成田空港管制塔占拠事件後に右翼四元義隆と共に三里塚芝山連合空港反対同盟幹部と政府の交渉を画策した[9]

1986年12月26日死去。享年57。1988年6月に遺稿・追悼集『一大衆政治家の軌跡――松本礼二=高橋良彦遺稿・追悼集』(「高橋良彦遺稿・追悼集」編集委員会編)が刊行された。

2007年の若松孝二監督の映画『実録・連合赤軍 あさま山荘への道程』では倉崎青児が松本礼二の役を演じた。

出典[編集]

  1. a b c 20世紀日本人名事典 「松本 礼二」の解説 コトバンク
  2. a b 荒岱介『新左翼とは何だったかのか』幻冬舎新書、2008年、83頁。
  3. デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「松本礼二」の解説 コトバンク
  4. a b c d 共産主義者同盟(再建準備委員会) リベラシオン社
  5. a b 穂坂久仁雄「松本礼二」 戦後革命運動事典編集委員会編『戦後革命運動事典』新泉社、1985年、266頁。
  6. 田代則春『日本共産党の変遷と過激派集団の理論と実践』立花書房、1985年、286頁。
  7. 絓秀実、井土紀州、松田政男西部邁、柄谷行人、津村喬、花咲政之輔、上野昂志、丹生谷貴志『LEFT ALONE――持続するニューレフトの「68年革命」』明石書店、2005年、101頁。
  8. 山崎一夫「共産主義者同盟情況派」 戦後革命運動事典編集委員会編『戦後革命運動事典』新泉社、1985年、75頁。
  9. 伊藤睦編『三里塚燃ゆ――北総台地の農民魂』平原社、2017年、235-237頁。

関連項目[編集]