隆光

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隆光
りゅうこう
生年月日 慶安2年2月8日1649年3月20日
生誕地 大和国二条村
死没日 享保9年6月7日1724年7月26日
死没地 大和国
死因 不明
国籍 日本国旗.png日本
出身地 大和国
住居 江戸・唐招提寺長谷寺
墓所 通法寺跡近辺

隆光(りゅうこう、慶安2年2月8日1649年3月20日)- 享保9年6月7日1724年7月26日))は、江戸時代前期から中期にかけての僧侶真言宗僧侶で、江戸幕府第5代将軍徳川綱吉の生母・桂昌院師匠でもある。

生涯[編集]

慶安2年(1649年)、大和国の二条村にて出生。10歳で唐招提寺へ入門する。その後、13歳で長谷寺へと入門した。この時、命と命が協力する事の大切さを知る。その後、江戸へ出て関東の真言宗総本山の護持院を造った。奈良に帰ってからは、松永久秀が燃やした東大寺の大仏殿を製作した。

貞享4年(1687年)、38歳の時、徳川家の世継ぎが生まれない[1]綱吉が、「世継ぎが生まれるには如何すれば良いのか?」と聞き、御犬様を大事にするよう命令[2]し、生類憐みの令の発布の基礎を作ったとされることは有名である[3]

元禄元年(1688年)、知足院を湯島から神田橋外に移し、元禄8年(1695年)9月に護持院と改称し、さらに綱吉たっての肝いりで大僧正の地位を与えられて開山とされた。

綱吉没後は権勢を失い、晩年は故郷へと帰り、修行をした。享保9年(1724年)6月7日、隆光は死去した。享年76。

隆光が登場する作品[編集]

テレビドラマ[編集]

映画[編集]

関連項目[編集]

参考文献[編集]

脚注[編集]

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  1. 正確にはこの4年前に嫡子徳松が早世して、綱吉は世継を失っていた。また、徳松以外の息子にも恵まれなかった。
  2. これは綱吉が生前、犬を殺した事を知った上で命令したと考えられる。
  3. この逸話は非常に有名だが、北島正元三上参次は疑問を抱いている。綱吉が徳松を失ったのは天和3年(1683年)で、それから4年も後にこんな逸話ができたことを疑問視。また、生類憐みの令は貞享4年(1687年)に出されたのではなく、貞享2年(1685年)2月に既にその系列に属する法令が確認できるため、この逸話は隆光ではなく、その隆光の師匠であった亮賢ではないか、と両者は唱えている。貞享4年まで隆光と綱吉・桂昌院母子の関係は余り確認できず、むしろ亮賢のほうが確認できるため、この進言は亮賢がしたものと見られている。三上は生類憐みの令の初発は貞享2年としており、それを根拠にこの逸話の主は亮賢であると唱えている。