水野日向守覚書

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水野日向守覚書(みずのひゅうがのかみおぼえがき)とは、水野氏に関する史料である。

概要[編集]

著者・成立年代[編集]

奥書に「寛永十八年己五月」とあるため、1641年5月ということになる。著者水野勝成。勝成の受領名は日向守なので、姓と受領名から題名が取られている。別称は『水野勝成日記』(みずのかつなりにっき)[1]

内容[編集]

全1巻。水野勝成の覚書である。この覚書は5部に分けることができる。

  • 第1部 - 勝成の初期の時代について。これには父の水野忠重、伯父の水野信元についても述べられているが、書かれていることは勝成が思い起こすまま順不同に書いている。
    • 冒頭は勝成と徳川家康が従兄弟であることがわかる程度の水野家略譜が掲載。
    • 1条は桶狭間の戦い毛利新介今川義元の首を取ること。
    • 2条が刈谷城で信元と家康が戦ったこと。
    • 3条が父の忠重が永禄元年(1558年)に緒川・石瀬合戦で初陣を飾ったこと。
    • 4条が小谷城の戦いで信元・忠重が織田信長の下で軍功を立てたこと。
    • 5条が信元が三河一向一揆で家康の命令を受けて出陣したこと。
    • 6条が忠重が小豆坂合戦(永禄7年(1564年))で一揆の大将である石川新七郎を討つ。
    • 7条が忠重が小牧・長久手の戦いで家康に夜討ちを進言するが却下されたこと。
    • 8条が忠重と勝成が織田信雄方で小牧・長久手の戦いで活躍したこと。
    • 9条が忠重が小牧・長久手の戦いで桑名城の戦いで羽柴秀吉方として参戦したこと。
    • 10条が小牧・長久手の戦いの蟹江城の戦いで忠重と勝成の活躍について。
    • 11条が忠重が掛川城の戦いで敵の槍大将を倒したこと。
    • 12条が忠重と勝成が浜松城の戦いに参戦したこと。
    • 13条が高天神城の戦いで忠重・勝成父子が活躍したこと。
    • 14条が小牧・長久手の戦いで忠重と勝成父子が不和になったこと。これにより勝成は諸国を遍歴したが、それでも軍功を立てたこと。
    • 15条が本能寺の変後の家康の甲斐国攻略に忠重と勝成が従い、黒駒の戦い後北条氏の軍勢と戦ったこと。
  • 第2部 - 関ヶ原の戦い
    • 関ヶ原の前哨戦である曽根城楽田城の戦いで西軍島津義弘と戦ったこと。勝成は関ヶ原に従軍することを望むが家康は許さず、曽根城を守るように命じられる。勝成はやむなくそれを足掛かりに大垣城を攻め、相良頼房を降伏させて福原直高に開城させ、家康からその手柄を讃えられた。
  • 第3部 - 大坂冬の陣
    • 大坂の博労ヶ淵の砦争奪戦に参加したこと。その後、江戸幕府の軍勢が天満橋を焼き落とした報告を受けて激怒した家康が、事実確認の使者として勝成を派遣したことについて。
  • 第4部 - 大坂夏の陣
  • 第5部 - 肥後国の騒動、島原の乱について。これも順不同である。
    • 1条が勝成が加藤清正改易された時に勝成が使者を務めたこと。
    • 2条が島原の乱の際、有馬城への使者を務めたこと。
    • 3条が秀吉の九州征伐の際に佐々成政の配下として従軍したこと。
    • 4条から7条が九州平定後の佐々氏家臣として肥後国に残り、肥後国人一揆で鎮定に活躍したこと。
    • 8条が佐々成政が改易された後も勝成は肥後に残り、小西行長の配下になったこと。9条から10条が肥後国人一揆で活躍したこと[2]

第1部、第5部は各条の小さい見出しを付けて内容を示し、第2部から第4部は条を取り払って要約を示している。上記を見てもわかるように、第1部と第5部の年代順はめちゃくちゃになっている[1][3]

寛永18年の時点で勝成は78歳という高齢である。そのためか、加藤清正の改易や忠重が秀吉方で活躍したことなど、あり得ないことが書かれている点がある。

脚注[編集]

注釈[編集]

出典[編集]

  1. a b 「戦国軍記事典 天下統一篇」(古典遺産の会。和泉書院。2011年)P718
  2. 「戦国軍記事典 天下統一篇」(古典遺産の会。和泉書院。2011年)P720
  3. 「戦国軍記事典 天下統一篇」(古典遺産の会。和泉書院。2011年)P719

参考文献[編集]