戸波親清
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戸波 親清(へわ ちかきよ、生没年不詳)は、戦国時代から江戸時代前期にかけての武将。長宗我部氏の一族で家臣。後に藤堂氏の家臣となった[1]。
略歴[編集]
通称は十兵衛。官途は右衛門尉。別称が多く、又兵衛・貞之・主水・長宗我部親吉などと様々な名乗りが伝わっている[1]。
父は戸波親武といって長宗我部元親の従弟に当たる人物である。天正17年(1589年)以前に父の親武は死去していたので、家督を相続して元親に仕えた。親清は武勇に優れ、長宗我部家一門の1人として活躍し、特に元親の四国制圧戦で武功を立てた。親清の居城は長岡郡植野にあったが、後に高岡郡戸波に移されて戸波城主となり、38町の所領を与えられて特に新田開発に尽力したという[1]。
慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いで長宗我部盛親が土佐国に敗走し、同家の改易が決定すると徹底抗戦を主張し、浦戸城への籠城を主張するなど主戦派となるも、盛親は改易を受け入れて親清はやむなく従うことになる。慶長19年(1614年)からの大坂の陣では盛親に従って参加し、八尾の戦いにおいて藤堂高虎の軍勢と交戦して大活躍した。しかし戦いには敗れ、盛親に従って敗走するも八幡付近において盛親と離れ離れになる。戦後はその高虎に150石を与えられて仕官した[1]。
なお、有名な荒木又右衛門は親清の弟子だったといわれている[1]。