朱霊

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朱 霊(しゅ れい、生没年不詳)は、中国後漢末期から三国時代にかけての武将文博(ぶんはく)[1]

生涯[編集]

冀州清河国鄃県(現在の山東省徳州市)の出身[1]。最初は袁紹に仕えた[1]。同郷の季雍が県を挙げて反乱を起こした際、討伐を担当したが季雍は朱霊の家族を捕らえて人質として降伏するように迫った[1]。朱霊は涙ながらに城を攻撃して季雍を生け捕りにしたが、家族は皆殺しにされた[1]

193年曹操陶謙を攻めた際、袁紹から曹操への援軍として派遣された[1]。ところがここで曹操の人柄に惚れ込んで曹操に帰順し、朱霊配下の兵も全員朱霊に従ったという[1]。袁紹没後に曹操が冀州を平定すると降伏兵を預けられ、曹操から寛大に扱うように命令を受けたが中郎将程昂に反乱を起こされ、その討伐を行なって程昂を斬って曹操に謝罪した[1]。曹操は鄧禹の故事を引いて咎めなかった[2]

211年には馬超の討伐に参加し、涼州平定後は夏侯淵路招と共に長安の守備を担当する[1]215年には漢中郡張魯討伐に参加し、進軍を妨害する氐族の軍勢に勝利する[1]

しかし数々の軍功を挙げながら、何故か曹操からは常に憎まれる立場にあり、軍勢を于禁に取り上げられてその配下にされたり、横海将軍までしか昇進しなかったという[1][3]

220年に曹操が死去し、曹丕に代替わりすると待遇は一変し、徐晃に次ぐ名声を得て後将軍に取り立てられる[1]。曹丕の死後は曹叡に仕えて228年石亭の戦い陸遜に大敗した曹休の窮地を救った[1]

三国志演義』では劉備袁術討伐に参加するが、戦後に劉備に兵力を預けたまま曹操の下に帰国したため曹操に危うく処刑されかけた[1]。馬超との戦いにも参加しているが、史実ほどの活躍は描かれていない[1]

脚注[編集]

  1. a b c d e f g h i j k l m n o 小出『三国志武将事典』P103
  2. 鄧禹は後漢の初代皇帝光武帝の功臣で、大軍を率いて遠征した際に部下の離反と兵糧不足で大敗した上に24騎だけで帰還したが、光武帝は敗戦の責任を問わずに許したという。
  3. 中国の思想刊行委員会『三国志全人名事典』徳間書店、1994年、147頁

参考文献[編集]